「できれば幼稚舎、ダメなら青山」

夫の一言で始まった息子のお受験。

渋谷区神宮前アドレスを手に入れ、理想の結婚をしたはずの京子だったが、とある幼児教室の門を叩いた日から、思いがけない世界が待っていた。

◆これまでのあらすじ
お教室で一緒のママ友・リナと志望校に対する考え方の違いから喧嘩してしまった京子だったが…

▶️前回:“名門私立小”出身者が抱える闇。小学校受験を巡って繰り広げられる、ママ友同士の攻防戦



8月が終わろうとしていた。

京子は、相変わらず授業でリナと顔を合わせている。

しかし、リナと志望校のことで言い合いになってから、お教室で会っても挨拶を交わす程度になってしまった。そこから先はまるで結界を張っているかのように、お互いがお互いに寄り付かない状態が続いている。

二人の間に入っている由香里がいなければ、きっとあの時すっぱり絶縁していたはずだ。

だが、お受験の天王山とも言われる年長の夏。

ママ友との仲を修復しようなんて気にしていられないほどに、自分のことで手一杯だった。

通常授業に加えて、夏期講習会や模試、願書用の写真撮影(もちろん伊勢丹写真館で)に、本番用のお洋服の準備……。忙しい上に、かなり散財した。

夏だけで50万以上も出費してしまった。これでも平均的な方だろう。

かけようと思えば、この夏だけで100万を軽く超えてしまうのが小学校受験の怖さだ。

講座をたくさん受ければ合格するものでもないし、オーダーメイドではなく既製品の受験服でも合格できる、とわかっていてもお金をつぎ込んでしまうのが親心。

「そう言えば、隼人くん、この間の慶應模試どうだった?」

体操の時間、隣に座っていた由香里が小声で話しかけてきた。


ピリピリし始めるこの時期、ママ友たちの関係はどうなる…?

この時期、今まで表面的には余裕を醸し出していたママたちの表情も、次第に険しくなってくる。

教室内のピンと張りつめた空気に思わず背筋を正してしまう。

「やっぱり、模試だと緊張するみたいで。雅也くんはどうだったの?」

由香里からの質問に対して曖昧に答え、「あなたはどうなの?」とブーメラン返しに問いかける。

由香里は、人柄はいいけれど少しおしゃべりが過ぎる。自分のことを話せば、翌日は別の場所でネタにされるのがオチだし、子供の誕生日が離れているとはいえ、彼女はライバルだ。

リナとの一件以来、お教室のママ友に対して、京子は相当な警戒心を抱くようになった。

「それがね…」

深刻そうに、由香里が切り出してきた。

「模試の結果、思っていたほど良くなかったの。サーキットなんかもボロボロだったみたいで。初めての場だから緊張したのかしら」

由香里はがっくりと肩を落としている。

「でも結局、本番で失敗しなければいいんだから、あまり気にしないほうがいいわよ」

差し障りのない言葉で彼女を慰めた。

「それはわかっているんだけど…」

なんだか言いにくそうな様子だ。

「私、感情的に雅也を叱ってしまったの」

どうやら試験結果に激しく落胆した由香里は、雅也を目の前に座らせ、結果について延々とお説教をしてしまった、と言うのだ。だが、彼女が落胆しているのは、叱ってしまったことではなかった。

「翌日から、雅也がオネショをするようになっちゃって。どうしたらいいのかしら?」

さらに、オネショについても雅也を叱ってしまったというのだ。

すると、雅也は「幼稚園に行きたくない」と泣いて駄々をこねるようになり、ここ最近は勉強に身が全く入っていないという。

京子は、東山先生に報告することと、小児科で夜尿症について相談することを提案した。

「気持ちはすごくよくわかるわ……。この時期って、本当に親も追い詰められるわよね」

京子は、由香里の気持ちがイタイほどわかった。

年長の夏、子供の出来不出来が親のメンタルに直接影響してくる、という状況を身をもって感じているからだ。





夜、隼人を寝かしつけたあと、春樹とワイングラスを傾けていた。

テーブルの上には、昼間に由香里が話していたのと同じ模試の結果表がある。

幼児が受ける試験といっても、しっかりと点数化され、平均点、順位、合格の可能性まで判定される。

実は、意外にも隼人の結果が良かったのだ。

行動観察、絵画・製作、体操のどれも大きく点数を落とすことなく、まんべんなく出来ていたようで総合順位が1桁だったのだ。

「幼稚舎との相性がいいみたいです」と東山先生にも言われ、この日のワインは二人にとって祝杯のようなものだった。

結局、隼人の成績がよかったから自分は精神的な安定を保っていられるのだと、昼間の由香里の話を聞いてつくづく思った。それに、子供の成績は、夫婦仲にも影響してくる。

春樹も今日は、すこぶる機嫌いい。

京子は「いまだ!」という絶好のタイミングで、“あの話”を切り出すことにした。


機嫌がよい夫を見計らって、京子が切り出した話題とは?

「ねえ、あなた覚えてる?両親面接の練習の時に、東山先生に言われたこと」

楽しそうにワインを飲んでいる春樹の気分を害さないよう、まずはやんわりと聞いてみる。

「なんか言われたっけ?」

本当に忘れているのか、すっとぼけているだけなのか。最近、京子は彼のこういうところにイラっとするのだ。

「先生、おっしゃっていたわよね?『お父様の髪の毛とヒゲ、本番はどうしますか?』って」

春樹は若い頃からトレードマークのようにヒゲをはやしている。服装や風紀に縛りの少ない広告代理店という業界では、珍しいことではない。

ヒゲだけならまだいい。

このコロナ禍。美容院に行くこともままならず、夏が終わる頃、春樹のヘアスタイルはすっかりロン毛と言える長さになっていた。願書用の家族写真はトリミングでなんとかしてもらったが。

「いやいや、こんな機会じゃないと伸ばせないからさ。直前には切るよ」

笑いながら話を流すつもりのようだ。

髪くらいさっさと切ればいいのに、と思っていたが表情には出さないよう慎重に切り出した。

「あのね」

京子は微笑みながら説得の筋道を探す。

「ヒゲはあなたのトレードマークだし、ロングヘアもとっても似合っているわ。でも…」

京子はあえて口をつぐむ。すると春樹は、急に身を乗り出してきた。

「似合ってるけど、なに?」

「お教室で同じクラスの葵ちゃんのパパ、会ったことある?」

相手を褒め、ついで話の矛先をずらす。どうにか髪を切らせたい京子は計算しながら言葉を選ぶ。

「その人とは会ったことないな」と春樹。

「って言うと思った。葵ちゃんのパパはね、レコード大賞も受賞したことのある超有名バンドのボーカルなの。TWIGGYのUTAさん知ってるわよね?」

意外とミーハー、という夫の性格を京子は熟知している。

「いらっしゃる時は、いつもお教室の隅で一生懸命メモをとっていらっしゃるのよ。UTAさん、お教室で参観するために、わざわざ金髪を黒髪に染め直したんですって」

春樹は「ちょっと待って」と言うと、冷蔵庫からチーズを取り出してくると、また京子の向かいに座った。

きっと話の続きが気になるのだ。



「周囲のママさんたちの熱い視線がすごいのよ!子供のために一生懸命になれるお父さんって素敵に見えちゃうものなのよ」

その言葉を聞き、春樹の意見が急に変わったようだ。

「俺もそろそろ髪切ろうかな。ついでにヒゲも剃ってイメチェンもいいかな」

ーよしっ!上手く行ったわ。

京子は心の中でほくそえんだ。

受験を乗り切るには、いかに夫を意のままに操るかがポイントになってくる、と最近気が付いた。どこの家庭も母親は熱心だ。しかし、足を引っ張るのは、たいてい我が子ではなく父親だ。

先日の両親面接練習の際に、東山先生にも「お父様は主役じゃありませんので」と言われてしまったほどだ。

両親面接の定番「お父様のお仕事」について聞かれた際、春樹は得意満面、饒舌に仕事の話を語ったのだ。

本来なら、自分の仕事に対するこういう姿勢を子供に見せたいと思って日々仕事に取り組んでいる、とか最終的には話の落とし所を子育てに持っていく必要があった。

なのに…。本気で自分の仕事だけを語るとは…。

ただ、お受験をきっかけに、夫の取り扱いについても学ぶことができたと京子は思っている。

結局、おだてまくっていればなんとかなる。

彼の自尊心を傷つけず持ち上げて事を運ぶことができれば、すべては思いのままになると。

「ヒゲがないのも見てみたいわ!きっとだいぶ若返るんじゃない?」

来週の両親面談は、身だしなみ完璧で臨めそうだと安心する。

どんなに子供の成績が悪かったと言っても、由香里は夫婦揃って幼稚舎卒。

でもうちは違う。夫を好印象に仕立てることは最低限必要だ。

京子の中にいつのまにか由香里には負けたくない、という気持ちが芽生えていた。



▶️前回:“名門私立小”出身者が抱える闇。小学校受験を巡って繰り広げられる、ママ友同士の攻防戦

▶︎Next:1月30日 土曜更新予定
お受験本番を迎えた春樹と京子。準備万端で臨んだはずだったが…。またリナや由香里もそれぞれ想定外な出来事が続出し…。