毎週金曜日に、ひっそりとオープンする“三茶食堂”。

この店のオーナーの直人(45)曰く、ここで繰り広げられる人生相談を聞いていると、東京の”いま”が知れるのだとか…。

さて、今宵のお客さんは?

▶前回:「あれも夫が買ったの…?」夫の彼女を突き止めた35歳妻の、驚くべき行動とは



Case11:自ら全てを冷ます女・美咲(27歳)


「直人さん!お代わり下さい!」
「はいはい、美咲ちゃん。どうぞ」

『三茶食堂』で白ワインを飲みながら、思わずため息が出た。

「…あの子、またこんな投稿してる」

Instagramを見て、カウンター席にいるのに声を出してしまう。

“あの子”とは同い年で会社の同期である、里奈。

ちゃっかりしている性格とちょっと細くて可愛い外見のおかげで、いつも得をしていた。

最近、前より彼女の存在がイライラする。

私は毎日必死で働いて、せめて家のアドレスくらいは「三茶です」と言いたいから、無理をして家賃15万を捻り出しているのだ。

それなのに里奈は彼氏と一緒に、クロスエアタワー住まい。

毎回彼女の投稿はわかりやすく“高層階に住んでいる”アピールがされており、それがより一層、私を苛立たせるのだ。

「男に出してもらっているお金でいい思いをするなんて、許せない」

見た目なら、私だって負けていない。

なのに里奈だけいつもいい思いをしており、それがどうしても許せなかったのだ。


女が許せない女。小さな画面ばかり見ている美咲に対して直人が放った言葉とは

「あぁ〜…もう本当に何なの!」

ほかにお客さんがいないのをいいことに、私は思わず叫んでしまった。

前まで、それほど里奈の存在を気にしていなかった。むしろ可愛くて、ちょっと憧れていたくらいだ。

でも仲良くなってから色々と内情を知り、彼女への憧れは苛立ちに変わっていった。

同い年で同じ給料のはずなのに、タワマン住まいやInstagramで見る暮らしぶりは、私とは雲泥の差。

「なんであんな嫌なヤツが、チヤホヤされるんだろう…。男って、本当に見る目がないですよね?って、とりあえずお料理の写真撮っておかないと」

出てきたパスタの写真を撮りながら、直人さんに訴えかけてみるものの、彼は苦笑いするばかり。

「まぁまぁ。美咲ちゃん、それよりせっかくの料理が冷めちゃうよ?」
「分かっているんですけど…男のお金で暮らしている女って、ダサくないですか?」

彼女の投稿を見るたびに、頑張って支払っている36平米の賃貸マンションの狭さとショボさにげんなりする。

何より許せないのが、私が思いを寄せている大輝先輩が、里奈のことを「いいな」と言っていたことだった。

「大輝先輩もバカですよね?あんなにも分かりやすい女の計算に、どうして気がつかないんだろう。冷めるわぁ…って、Clubhouseで友達が話し始めたから、音声ONにしてもいいですか?」

1人で話し続けていると、さっきまで静かに聞いていた直人さんが急に話し始めた。

「美咲ちゃん…。本質的なこと、見失ってない?それ、見てみなよ」

直人さんが、私の手元にある「ボンゴレビアンコ」を指差した。



「もう10分以上放置されて、冷め切っているよ?料理は出されたら、すぐに食べる。温かいうちに食べるのが、料理人に対する思いやりってものだよ」

直人さんの言葉に、私は思わず俯く。

「すみません…」
「謝ってほしいわけじゃないから、謝らないで」

さっきから他のことに頭がいっぱいで、目の前にある料理の存在を忘れていた。

「今の美咲ちゃんは、目の前にある大事なことが見えていないよ」

パスタの麺が、乾ききっている。さっきまで美味しそうに立っていた湯気も香りも、すっかり消えている。

「下ばかり見て狭い世界に没頭しないで、顔を上げて、視野を広げないと。気づいたときには、リアルな世界で周りに誰もいなくなっちゃうよ?」

思わず、スマホからパッと手を離した。

大きく息を吸い込むと、店内全体に、刻みニンニクと唐辛子の良い香りが充満している。

周りを見渡してみると、優しい眼差しでこちらを見ている直人さん。小さいけれど居心地が良い、ウッド調でまとめられているセンスの良い店内。

丁寧に磨き上げられたキッチンに、綺麗に並べられている調味料やお鍋…。全く目に入っていなかった景色に、ハッとなった。

「私って…」

目の前にある料理の食べごろも見逃すほど、手元のスマホしか見ていなかったことに気づく。


“隣のあの子”への執着と携帯を手放してみて、見えた幸せとは…?

直人:下ばかり見ずに、顔を上げて。


僕はこの店を、週に一度しか開けていない。だから生粋の料理人かと言われれば、そうではないのかもしれない。

けれども一品一品、真心を込めて作っている。お客さんが少しでも幸せになってくれるよう、そして“美味しい”という笑顔のために、誠心誠意向き合って料理をしている。

だからさっきから、スマホばかりを見て、目の前の料理に一向に手をつけない美咲の行動が気になって仕方なかった。

お客さんにはそれぞれペースがあるだろうし、うるさく言うつもりは全くない。

だが彼女の場合は、SNSの狭い世界ばかりに目を向けて、目の前にある大切なことが見えていない気がして、思わず注意してしまったのだ。

年頃の女性のことだ。他人が気になるのも理解できるし、愚痴を言いたくなる時もあるだろう。

けれども美咲の場合はあまりにも小さな世界で生きており、大事なことを見失っている。

「下ばかり見て狭い世界に没頭しないで、顔を上げて、視野を広げないと。気づいたときには、リアルな世界で周りに誰もいなくなっちゃうよ?」

目の前の料理を、熱々のうちに、美味しく食べること。料理が作られる過程で奏でられる、音を聞くこと。

外に耳を澄ませれば、時折聞こえてくる街の騒がしさ。

今身の回りで起きていることに集中していると、人のことなんてどうでもよくなる。

自分自身が満たされていると、人は誰かを愛する余裕ができ、そして愛されるのだ。



それからしばらく、美咲は店に来なかった。

店に来られるタイミングもあるだろうし、前回僕が言った言葉で傷つき、来るのが嫌になったのかもしれない。

基本的に、僕はお客さんを追いかけることはしない。

それぞれの人生があるし、出会いは縁である。新たな縁もあれば、残念ながら消えてしまう縁もある。

そう思っていた矢先、美咲が最後に来店してから3ヶ月くらい経った頃だろうか。店を閉めようとしていると、男女2人が飛び込んできた。

「直人さん、まだやっていますか?」
「おぉ、美咲ちゃん。久しぶりだね。うん、まだ開いているよ」

美咲に腕を引っ張られるように、黒縁メガネをかけた塩顔の男性も一緒に入ってきた。

「直人さん、こちら大輝先輩。このお店の話をしたら、どうしても行ってみたいって言い出して」

美咲の言葉に、大輝が小さく頭を下げる。

「美咲から、“すごく素敵なお店だからいつか一緒に行きたい”って言われたんです。でも最近、美咲も僕も新しいプロジェクトが忙しくて…。昨日無事に終わり、ようやく時間が取れました」

「大輝先輩。今日はお疲れさま会、ということで。乾杯!」

2人で仲睦まじく乾杯をしている様子は、なんだか微笑ましかった。

そして気づけば、美咲のスマホはずっとカバンの中にあり、結局店を出るまで一度も触っていなかった。

「あれ?美咲ちゃん…」
「もう狭い世界で生きるのは、やめました。今この瞬間に目の前で起きていることを大切にしながら、上を向いて生きようと思います」

店を出て歩き始めた美咲。

― 幸せは案外、すぐ目の前にあるものだよ。

見送りながら、背筋がしゃんと伸び、まっすぐ上を向いて歩くその美しい後ろ姿に、僕はそっと語りかけた。


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いよいよ最終回。『三茶食堂』誕生秘話