あふれた水は、戻らない。割れたガラスは、戻らない。

それならば、壊れた心は?

最愛の夫が犯した、一夜限りの過ち。そして、幸せを取り戻すと決めた妻。

夫婦は信頼を回復し、関係を再構築することができるのだろうか。



幸福な家族像が砕け散るとき


かわいい娘。子煩悩な夫。優しい義理の父と母。

どこからどう見ても、何一つ不自由のない、完璧に幸福な家族のように見えるだろう。

私は…そう、私だけが、そんなふうに思っていた。



ピアノの発表会は、すべての演目が終わってもまだ夕方の4時だった。

会場の窓から見える表参道の景色は、陽はかげり始めているものの、イルミネーションはまだ点灯していない。

黄色く色づいたけやき並木をバックに、娘の絵麻の真っ赤なドレスがよく映える。小学1年生にしては小柄な絵麻の体は、先ほど祖父母からもらった大きな花束でほとんど隠れてしまいそうだった。

「絵麻、上手だったなー!まだ時間もあるし、このままキデイランドに行って、何かご褒美を買ってあげようか?」

「本当に!?絵麻、すみっコぐらしの文房具セットがほしい!学校でお友達みーんな持ってるの」

愛娘の晴れ舞台に目尻をずっと下げているのは、夫の孝之だ。

その横で、絵麻の祖母である義理の母が、大きなパールのイヤリングを揺らしながら私にニコッと微笑みかける。

「どうにか無事に開催できてよかったわね。美郷さん、色々と大変だったでしょう。しばらくは家のことも絵麻ちゃんのことも、孝之に全部まかせてゆっくりしちゃいなさいね」

品のいいスーツに身を包んだ義理の父も、ニコニコとした微笑みを浮かべながら絵麻を褒め続けていた。

かわいい娘。子煩悩な夫。優しい義理の父と母。

どこからどう見ても、何一つ不自由のない、完璧に幸福な家族のように見えるだろう。

私も、そんなふうに思っていた。

でも今は、こんなに心温まる美しい光景のなかで、私の心だけが冬の夕暮れのように薄暗く冷えきっている。

疑いようのない幸福はすでに失われていた。

幸せだった1週間前とは、今はもう何もかもが違っている。

それも当然。私と孝之は、“再構築”を始めたばかりなのだから。


幸せそうに見える美郷と孝之。1週間前に起きたこととは…?

すべてが変わってしまった、1週間前の出来事


いつもと同じような朝だった。

家族3人で朝食を取ったあと、たっぷりと朝日が差し込むリビングで、私は絵麻の薄茶のくせ毛を編み込みにする。

その横で、孝之が慌ただしく身支度を整えていた。電気シェーバーでヒゲを整えながら、コンパクトなリモワのトランクに必要な荷物を放り込んでいく。

「出張なんて久しぶりだから、何を持っていくべきなのか、わからなくなってるな。とりあえずスマホの充電器だけ持っていけば大丈夫だよね」

充電ケーブルをクルクルとまとめながら、孝之が私に話しかける。

「出張って言ったって、大阪にたった1泊でしょ?足りないものがあれば、あっちで買えばいいじゃない」

「まあ、そうなんだけどね。新幹線に乗るのも久しぶりだし、なんだかワクワクしてるんだよ」

私の提案にいたずらっぽく答える孝之は、今年で40歳になるというのにまるで絵麻と同じくらいの子どもみたいだ。

これでも、そこそこの規模の不動産会社の経営者だというのだから、時折心配になってしまう。

「まずい!もうこんな時間か。下にタクシー待たせているからもう行くよ」

慌ただしく出ていく孝之を玄関まで見送るのも、結婚してからほとんど毎日続いている習慣だ。

「行ってらっしゃい。出張、気をつけてね」

「行ってきます。美郷、愛してるよ」

見送る私の頬に、孝之はそう言って小さなキスをする。

そんないつものやりとりを、ちょうど制服に着替え終わった絵麻がしっかり目撃していた。

「もう、パパったら!絵麻が見てるじゃない。いい歳していやになっちゃう」

気恥ずかしさのあまりそんなセリフでお茶を濁すけれど、お調子者でいつまでも恋人のように振る舞いたがる孝之は、いつだって娘の前でもお構いなしだ。

そんな私たちを見慣れている絵麻も、いつもと同じように冷やかしの言葉を投げかけてくる。

「ねえ、パパ。パパって本当にママのことが大好きだよねぇ」

「そうだよ。でも大丈夫だぞ!パパはもちろん、絵麻のことも愛してるからね!」

じゃれあう2人が「いってきます!」の挨拶とともに弾丸のように飛び出していくと、家はまるで別世界のようにすっかり静かになった。

私は玄関で大きく伸びをすると、リビングに戻って朝食の後片付けにとりかかり、自分のためのコーヒーを入れる。

ここまでは、いつもと代わり映えのしない朝だった。

だがこの日は、コーヒーを持ってソファに腰を下ろしたとき、目の前のテーブルにあるものが置いてあったのだ。

私1人となったこの家に、いつもならば存在しないもの。

それは、孝之のスマホだ。



「え…?孝之ったら、出張なのにスマホ忘れてる!」

充電ケーブルをトランクに入れても、肝心のスマホを忘れていたのでは世話がない。

すっかり呆れてしまうが、無視するわけにもいかないだろう。だが、孝之に連絡を取ろうにも、スマホがここにあるのだから手の施しようがない。

「どうしよう。品川まで急いで追いかけて、届けたほうがいいのかな…」

大阪には新幹線で行くと言っていた。自宅の白金からタクシーに乗って、品川駅の港南口までは10分もしないはずだ。孝之が出ていってから、もう15分近く経つ。

急いで追った方がいいだろうか?それとも、私が着く頃には発車してしまうだろうか。

とりあえず、何時発の新幹線なのか、確認しなければいけない。

きっと、このスマホでLINEを開いて、秘書の木村可奈さんとのやりとりを見れば書いてあるはず。

勝手にスマホを見るのは気が引けるけれど、事情が事情。非常事態。そう判断した私は、意を決して孝之のスマホに手をかける。

パスコードは、すでに知っているのだ。


孝之のLINEをチェックする美郷。そこには衝撃の内容が書かれていた…

孝之のスマホのパスコードは、絵麻の誕生年月日。

「忘れっぽい俺でも、これだけは絶対に忘れない!」と言っていたのが、いかにも子煩悩な孝之らしい。

すんなりと開いたスマホでLINEを立ち上げる。思った通り、義父から会社を継いで以来4年間秘書を務めてくれている木村可奈さんからのメッセージが残っていた。

『社長、明日の新幹線は7:55発ののぞみですよ。寝坊しないようにご注意くださいね』

「もう、年下の木村さんにまで子ども扱いされちゃってるじゃない」

思わず苦笑いがこぼれるが、ともあれ、今の時刻は7:15。急いでホームまで追いかければ間に合いそうだ。

「えーっと、何号車に行けばいいのかな…?」

軽い気持ちで、少し前のメッセージまでさかのぼる。

だが、次の瞬間。予想外の衝撃に私は一瞬、呼吸を忘れた。

勢い余ってスワイプしすぎた今年6月のトーク。そこに、探していたものとはまったく関係のないメッセージを見つけてしまったのだ。



『社長、安心してください。昨晩のことは誰にも言いません』

『でも私、後悔してませんから。仕事のあと、また部屋で待ってます』

「なに…これ…?」

心臓がヒュッと落下するような感覚に襲われたかと思うと、すぐに、破れそうなほどバクバクと激しく鼓動し始める。

孝之にスマホを届けるなら、今すぐにでも出発しないと間に合わない。だが、体は金縛りにあったように固まってしまい、まったく動けなかった。

ー なにこれ…なにこれ?どういう意味なの…?

頭の中は、疑問でいっぱいだ。ぼうぜんと立ち尽くすしかできなかったそのとき、バタンッと玄関のドアが慌ただしく開く音がした。

「まずいまずい〜。美郷ー!俺、スマホ忘れてるよね〜!?」

静まり返る家中に響き渡る、孝之の能天気な声。

大騒ぎで引き返してきた孝之は、私の姿を見つけた途端に口をつぐんだ。

スマホを手にしてぼうぜんとする私と、その姿を無言で見つめる孝之。永遠にも思えるような沈黙が、2人の間に流れた。

「ねえ…秘書の木村さんと浮気してるの?」

気がつけば私は、まるで夕飯のリクエストを聞くような、なんでもない口調で孝之に問いかけていた。いつもと変わらない孝之の顔を見ると、急に現実に戻ってしまうのだ。

「何言ってるんだよ、バカだな〜!」

いつもみたいに明るい声で、そう言ってほしかった。

「冗談だよ!びっくりした!?」

いつもみたいにイタズラっぽく、そう否定されるはずだった。

でも…。

目の前で孝之がとった行動は、付き合い出してからの19年間で1度も見せたことのない姿だったのだ。

180cmの長身が折れまがり、私が見立てたゼニアのスーツをまとったその両膝が、ゆっくりと毛足の長いラグに埋もれていく。

土下座。

初めて見る夫の土下座を前に私は、突然まったく知らない場所に連れてこられてしまったような恐ろしさを覚えた。

だが、そんな私の恐ろしさをよそに、孝之は低い声を漏らす。

「ごめん。魔がさした」

額をべったりと床につけているため、孝之がどんな表情をしているのかはわからない。

でも、これだけはよく理解できた。

何一つ不自由のない、完璧に幸福な、私の“いつも”の日々。

それはたった今、この瞬間、粉々に砕け散ってしまったのだった。


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子煩悩で愛妻家の夫の浮気。再構築かそれとも…妻が下した決断とは