高い偏差値を取って、いい大学へ進学する。

それは、この東京で成功するための最も安定したルートだ。

…あなたが、男である限り。

結婚や出産などさまざまな要因で人生を左右される女の人生では、高偏差値や高学歴は武器になることもあれば、枷になることもある。

幸福と苦悩。成功と失敗。正解と不正解。そして、勝利と敗北。

”偏差値”という呪いに囚われた女たちは、学生時代を終えて大人になった今も…もがき続けているのだ。

▶前回:「娘には、東大に入ってほしくない…!」東大卒のワーママが身を持って痛感する、高学歴ならではの辛さ



File9. 郁美(31)
一見、何もかも手に入れたかに見えるけれど


白金台駅から少し歩いた場所にある、瀟洒な低層型超高級マンション。

このマンションの最上階が、郁美の住まいだ。

― やっと、やっと、私が子供のころから望んでいた暮らしが叶ったわ。ずっとなりたかったお嬢様のような暮らしができる。

夫の勇人と3年前に結婚し、すぐに購入したのがこのマンション。

「白金」というネームバリューもさることながら、都心にありながらも美しい緑に恵まれたこの場所での暮らしに、郁美は心の底から満足していた。

結婚の翌年に娘の蘭が誕生してからは、環境の良さにますます満足度は高まった。

事業を営む夫と可愛い娘。そして瀟洒なマンションを手に入れた郁美は、20代にして何不自由ない裕福な生活を送ることができていたのだった。



しかし、そんな郁美を憂鬱にするあるものが近くにあった。

マンションから駅に向かう途中にある、中学受験で名高い大手進学塾の存在だ。

毎日多くの小学生が大きなバッグを抱えて通うその塾は、21時過ぎにもなると、多くの小学生と迎えに来る保護者で道は溢れかえるほど盛況なのだった。

夜遅くまで勉強に励む小学生たち。

― あの子たち、小さいのによく頑張っているわよね…。私もそうだったけれど…。

努力している子供たちの姿を見る度に、郁美の脳裏にはある苦々しい思い出が蘇ってくる。

それは、人生で初めての挫折の経験だった。


郁美が持ち続けた「お嬢様」への憧れ

努力が報われなかった瞬間が、人生のトラウマとなる


初めての挫折。それは、中学受験での失敗だ。

郁美には幼い頃、近所に住む3歳年上の幼馴染がいた。

裕福な家庭で育ち、ピアノやバレエをたしなむ“ザ・お嬢様”な彼女は、小学校受験を経てあるお嬢様学校に通っていたのだ。

制服を身につけた幼馴染と道端で会う度に、郁美は幼心にこう思った。

― お姉さんが着ているセーラー服とっても素敵!私もあんな風になりたいなぁ…。

郁美にとって、お嬢様学校に通う彼女は憧れそのもの。

しかし、そのような憧れは持ちつつも、小学校受験をするような家庭ではなかったため、小学校は杉並区内の公立に進むことになった。

小学校4年生になり周りの流れに乗るように進学塾に通い始めると、断トツ一番ではないもののなんとかトップのクラスに在籍できていた郁美は、女子御三家の3校すべてを見学した。

そして、見学した学校の中で最も郁美を夢中にさせたのはやはり…幼馴染が通っていた、憧れのお嬢様学校だったのだ。

― ここに行きたい!このセーラー服を着て通いたい!

カトリック伝統校特有の品の良さと、可愛いセーラー服や瀟洒な校舎。御三家の中でもとくに“お嬢様”のイメージが強い学校を第1志望校とした郁美は、学校見学日以降、必死に努力をして御三家クラスにくらいついていた。

夏も、冬も、毎日続く努力の日々。

そして迎えた受験シーズン、本番の2月1日。郁美の気合と緊張は、最高潮に達していた。

しかし…。

女子御三家が一斉に合格発表をする、受験翌日の2月2日。

郁美は、自分の受験番号を合格者の中に見つけることはできなかった。



中学受験では、第1志望の御三家以外にはすべてに合格した。

しかし、その第1志望以外はあくまで「すべり止め」であり学校見学もろくに行かなかったため、郁美は「自分が通う」ということを全くイメージしていなかったのだ。

第1志望校とは違い、可愛いセーラー服も、瀟洒な校舎もない。

一般的にみた校風も「偏差値は高い進学校ではあるけれど、お嬢様が行く学校ではない」というものだった。

郁美の両親は、こう言って慰めてくれた。

「第一志望は残念な結果に終わってしまったけれど、ご縁があった中学校だって素晴らしい進学校よ?それに、また大学受験で頑張ればいいじゃない」

そして、郁美自身も、もはやこう思っていた。

ー あのセーラー服が着られない時点で、どこの中学に進んでも一緒だわ…。

こうして渋々、第2志望の中高一貫校に進学したのだった。



「努力してもかなわなかった」

この苦い思い出は、トラウマとなって郁美を苦しめ続けた。

電車で時々見かける、あの御三家のセーラー服。

― 今着ているこのブレザーじゃなくて、あのセーラー服が着たかったのに。

何度も夢の中で着た「あの」セーラー服を見る度に、目を背けたくなった。

そして、心に強く誓ったのだ。もう2度とこんな思いはしないように、死に物狂いで努力することを。


進学した中学は中高一貫なので、中学3年生の途中からは高校のカリキュラムの授業を開始するなどの先取り教育を行っていた。そのため多くの生徒は、高校生になってから塾や予備校に通い始める。

しかし郁美は、学校生活を楽しむことは程々にして、大学受験を早々に視野に入れて中学校の時から大手予備校に通うことにしたのだ。

そして、高3の冬。

何度も思い出してしまう「小6の2月の悪夢」の雪辱を晴らすべく大学受験に挑んだ郁美は、猛勉強に青春を捧げた努力の甲斐あって、現役で慶応義塾大学法学部に合格することができたのだった。



中高一貫校の進学校から、現役で慶應に合格。

この郁美の学歴は、親や周りからすれば申し分ないものに見える。

しかし、他の誰でもない郁美自身にとっては、全くと言っていいほど納得のできない経歴なのだった。

「あんな学校、全然好きじゃなかった」

「偏差値が低くてもいいから、もう少し『お嬢様』と言われる学校がよかった」

「なぜお父さん、お母さんは、私を小学校から私立のお嬢様学校に行かせてくれなかったのだろう」

郁美にとっては、たとえ大学という「結果」が同じ慶應だったとしても、「経過」である中高は、あくまであの御三家か、準ずるくらいの名門お嬢様学校でなければならなかったのだ。



慶應を卒業後は、金融機関に勤務した後に勇人と結婚し、今の生活を送ることができている。

しかし、今でも「なりたい自分になれなかった」というコンプレックスが、郁美の心の中に消えないシミのように存在しているのだった。

そして、郁美はこう誓う。

― 蘭には私と同じような思いはさせない。女の子なんだから、幼稚園や小学校から私立に進学して、変な競争に巻き込まれることなく、お嬢様として女性らしく穏やかに生きてほしい。

そんな思いが日に日に強くなっていった郁美は、自ずと蘭の小学校受験を考えるようになっていた。

そして、ある程度考えが固まったところで、勇人にこう相談をした。

「ねぇ、小学校受験のことだけど…」

しかし、夫から返ってきたのは思いがけない反応だったのだ。


郁美が向き合うべきなのは…

夫との価値観の違いが明らかになる


「蘭の小学校受験だって?郁美、何言っているの?」

勇人は完全に面食らって、ぽかんと口を開けている。

「ってか、そもそも、俺たちの間でそんな話が出たことあったか?」

「……」

答えられなかった。今まで蘭の小学校受験については自分で考えていたのみで、勇人に相談したことなどなかったからだ。

「うーん…。俺は、女の子だからって私立にこだわる必要はないと思うけど。恵まれた子が集まる環境に閉じ込めないで、小学校くらいは公立で色んな価値観を学んだ方がいいよ。

まぁこの場所だから、公立でもそれなりに裕福な人ばかりだけどさ。小学校の時くらいしか色んな人と関われないんだから、その機会を蘭から奪わない方がいいと俺は思うな」

― この人、何にもわかっていない…。

勇人は、いまだに公立高校が礼賛されるような地方の出身だ。東京の小学校受験事情など、当然何もわかっていない。

「でも、違うの。東京は違うのよ」

「何が違うの?とにかく、俺は小学校受験をすることには賛成できない」

勇人としては、頭になかったことをいきなり当然のように話題にされたことも気に入らなかったのだろう。

この日の話し合いは、気まずい雰囲気をのこしたまま平行線で終わっていった。



その後も何度か、郁美が小学校受験について相談を持ち掛けては、勇人が耳を貸さないということが続いた。

そして、また懲りずに相談をしようとした郁美に、勇人はこう質問した。

「ねぇ、なんで蘭を小学校受験させたいの?」

問われた郁美は、こう答えた。

「蘭は女の子だし、変に競争することなく生きた方がいいと思うの。これは、私が女だから言えることよ。

あと…私は進学校に通っていたけど、毎日毎日成績で争っていたのが本当に嫌いだったの。とにかく、蘭には同じ思いはさせたくない。女の子だし、“お嬢様学校”と言われる学校に通って、戦うことなく穏やかに学校生活を送った方が絶対に幸せになれると思うの」

しかし、その言葉を聞いた勇人は、郁美の目をじっと見て言った。

「あぁ、聞いてわかったよ。蘭の小学校受験って言っているけど、蘭じゃなくて郁美自身の問題だね。競い合うのがイヤだったのか何だか知らないけど、蘭を郁美の人生に折り合いをつける道具にしないでくれ。蘭は俺の娘でもあるんだぞ。

だいたい、蘭自身が『競争は嫌だ』とか『穏やかに生きたい』とでも言ったのか?違うだろ?」

「……」

常日頃から穏やかだけれど、意見ははっきりと言うのが勇人だ。

その言葉はあまりにも核心を突くものであり、郁美は返す言葉がなかった。



郁美はそれからというもの、小学校受験自体よりも、なぜ自分が蘭の小学校受験にこだわるようになったのかを、改めて考え直していた。

『蘭を郁美の人生に折り合いをつける道具にしないでくれ』

勇人の言葉が、何度も郁美の頭の中でリフレインする。

郁美は、貧しいわけではないが裕福なわけでもない、ごくごく一般的な家庭で育った。

しかし、そんな家庭に満足できず、周りから「特別」と思われたく、また「頭いい」というだけなのもイヤで、御三家のお嬢様学校を目指そうと考えたのだ。

― ずっと持っていたお嬢様コンプレックスを、蘭の小学校受験で克服しようとしているだけなのかな…。

娘を持つ母親であれば、少なからず自分の人生の成功や失敗を子育てに反映してしまうものだろう。

しかし、娘の人生は、娘のもの。すなわち、蘭の人生は、蘭のものだ。

郁美が勇人に言った小学校受験の理由は、一見それらしいものに見える。しかし、結局はすべてが郁美のコンプレックスに起因した理由ばかりだ。

― そもそも私、蘭の何を見て小学校受験考えていたのかな…。

そう思って、郁美は改めて蘭を見た。

男の子にも全く負けないほど活動的で、快活な蘭。自己主張も強く、誰かの言うことを聞くというようなところもない。

― あぁ…。やっぱり勇人の言う通りかもしれない。蘭って全然…。

とてもではないが、東京の私立の、ましてや雙葉や聖心、白百合といったお嬢様学校のお受験なんて向きそうにもない。

自分の人生のやり直しに娘を使おうとしていたことをはっきりと自覚した郁美は、活発に動き回る蘭を前に1人反省したのだった。

― 小学校受験云々じゃなくて、蘭をちゃんと見よう。私のコンプレックスは、私自身が解決しなくちゃいけないんだ。

そう強く感じた郁美は、小学校受験に関する雑誌や資料のすべてをゴミ袋に入れ始める。

積み上げられた資料がひとつ、またひとつとゴミ袋の中に消えていくたびに、郁美の心に澱のように沈んでいた暗い気持ちも、心なしか少しだけ軽くなっていくような気がした。

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