「彼以外を、好きになってはいけない」

そう思えば思うほど、彼以外に目を向けてしまう。

人は危険とわかっていながら、なぜ“甘い果実”に手を伸ばしてしまうのか。

これは結婚を控えた女が、甘い罠に落ちていく悲劇である。

◆これまでのあらすじ

交際4年目の彼氏・大介との結婚に迷いを感じ始めた美津は、以前取材したバーで、パーソナルジム経営者・篤志から口説かれる。最初はあしらっていた美津だが、次第にほだされ彼が退店すると後を追ってしまい…。

▶前回:「婚約者の彼だと、退屈」平凡な未来に鬱屈する女が、他の男に魔が差してしまい…



バー『onogi』の扉が、ゆっくりと閉じていく。

美津はそのスキマに細い腕をすべり込ませた。

重い扉をグッと押し開け、篤志の後ろ姿に向かってすがるように声をかける。

「ま、待ってください!篤志さん」

「…あれ?どうしたんですか?」

振り返った篤志は、発した言葉とは裏腹に、美津が追ってくることを最初から知っていたかのように微笑んだ。

「…あの、その。よかったら、篤志さんの連絡先を」

「おお、もちろんです。嬉しいなあ」

篤志が、ダウンジャケットのポケットからスマホを取り出す。

22時過ぎの冬の恵比寿。夜風が美津の頬を急激に冷やした。

「美津さん。ほら、コート着な」

連絡先の交換を終えると、篤志はそう言って、筋肉質な腕で美津のバッグをヒョイと持った。

ふわりと感じる香水に、美津はうっとりしてしまう。

恋の予感。そんな言葉がぴったりだったかもしれない。

「美津さん、今週の土曜は空いていますか?」

篤志は、早速美津を誘った。

― 土曜。大ちゃんと電器店に行って、新しい冷蔵庫を見る約束してたけど…。

大介への罪悪感がありつつも、美津は小さくうなずいた。

「空いてます」

― 食事くらいなら、いいわよね?

心の中で言い訳をするようにつぶやいた。

…しかし数日後、篤志から誘われたのは、美津の想像を超えた食事デートだったのだ。


美津が目を輝かせた、予想外のデートのお誘いとは?

キッチンから水音がする。

大介がお皿を洗っているのだ。

篤志の連絡先をゲットした翌日、美津がいつものように何もせずにソファでくつろいでいると、LINEの通知が鳴った。

送り主は、篤志だ。

「土曜は、京都に行こうか。美味しいお寿司屋さんがあるんだ」

― 京都!?

指定された場所が想定外だったので、美津は思わずスマホを落としそうになる。

― 軽くディナーとかじゃなくて、京都?…ということは、泊まり?

大介が入れてくれたミルクティーを一口飲んで、脈打つ心臓を落ち着かせる。

今までの美津だったら、このような突然の誘いには乗らなかった。失礼な男だと思って一蹴していたはずだった。

しかし今、美津は驚きと同時に、ワクワクしている。

「…ねえ、大ちゃん?」

キッチンにいる大介に向かって声をかけると、水音が一旦止まった。

「なーに?」

「あのさ、週末ね、取材で京都へ行くことになったわ」

美津の口から、嘘がスルスルと出てくる。

「京都ー?」

布巾で濡れた手を拭きながら、大介がリビングにきた。

「そう。それで、もしかしたら1泊するかもなの。冷蔵庫見に行く約束、来週でもいいかな?」

「それは全然いいよ。京都か、いいなあ。せっかくだし日曜の夜までのんびりしておいで」

美津はほっと胸をなで下ろし、普段通りの笑顔になるように気をつけながらこう言った。

「ありがとう、楽しんでくるわね」





京都に行くなら、東京駅に集合だろうと美津は思っていた。しかし、篤志は車で美津の最寄駅まで迎えにきたのだ。

そして車は、見知らぬ場所に到着する。

― え?

「僕のヘリです」

美津はあぜんとして、目の前にある立派なヘリコプターを見つめる。「篤志さんなら新幹線はグリーン車だろうなあ」などと期待していた自分が馬鹿みたいだと美津は思った。

早速乗り込むと、程なくして機体がフワッと宙に浮かんだ。

東京の街が一気に小さくなっていき、それと同じように、大介への後ろめたさも消えていく。

「篤志さん、私、ヘリって初めて乗りました」

「悪くないでしょ」

大介の大きな手が、美津の左手に重なっている。美津は夢見心地で、目下に広がる景色に釘付けになっていた。

京都に着くと、13時を回っていた。タクシーに乗り換え、目当ての店へと向かう。

「お腹ぺこぺこでしょ、遠慮しないでたくさん食べてね。大将にわがまま言って、昼過ぎからお店開けてもらったので」

白木のカウンターが美しい洗練された寿司店で、まだ明るいうちからビールで乾杯をした。京野菜を使ったつまみも、揚げ物も、そして寿司も、最上級の味だった。

満腹の美津は、大満足で店を出る。

「あー最高だったね。どうしてもこの寿司店に、美津さんをお連れしたくて。まだ付き合ってないのに、いきなり京都って思った?」

「はい」

美津が笑うと、篤志は自然な様子で美津の肩を抱く。

「さーて、美津さん。どうする?」


篤志が美津に提示したのは、2つの選択肢

「え?どうするって…?」

「このまま東京に帰ることもできる。でも、最高の旅館を押さえてある」

篤志は、余裕そうな表情で美津を見ている。

― 私に選ばせるの?

「…そんなの、ずるいわ」

困ったように言うと、篤志の手が頭にポンと置かれる。

「かわいい」

そう言って彼はタクシーを止め、運転手に旅館の名前を伝えた。



― 気持ちいいなあ。

冬の露天風呂は、いつまでも入っていられる。

竹林の緑を前に、美津は1人で顎先まで湯船に浸かっていた。

貸切の女湯。隅々まで綺麗な最高級の旅館に今、自分はいる。

― 最上級の場所ね。

美しい景色を前にして、美津は思うのだ。

自分は一橋大学に入り、大手出版社に入り、バリバリ働いてきた。学があって、収入もあって、それに美人だ。

言葉にはしないけれど“自分にはすべてがそろっている”と美津は思っている。

― だから篤志さんは、私にとても似合う男性だわ。世の中って、ちゃんとレベルが釣り合う相手に出会えるようにできているのね。

冷たい空気をいっぱいに吸い込み、息を吐く。

呼吸をするたびに、これまでの退屈な人生が吐き出され、細胞一つひとつが新しくなっていくような気分になった。

豪華な夕食を部屋で堪能したあと、地酒を飲んで篤志と話をする。そのとき、彼がふと言った。

「寝る前にちょっと、あったまらない?」

篤志の視線の先にあるのは、部屋に付いている露天風呂。…竹林がライトアップされていて、綺麗だった。

― そうよね、こうなるわよね。

美津は、うなずいた。

ヒノキの香りがする湯船に並んで浸かって、目を閉じる。

骨ごととろけるような、甘い気分の1日だった。

― 私、大ちゃんより、この人がいい…。

迫りくる欲望をにじませながら、美津は、すぐ横にある鍛えられた腕に手のひらを滑らせた。



力尽きた2人は、白いシーツの上に全身を委ねた。満たされた表情の篤志に、美津はすり寄る。

このとき、すでに美津にはある結論が出ていた。

“大介と別れて、篤志と結婚前提に付き合おう”

篤志と恋人として深い関係を始めたい。輝かしい人生を始めたい、と。

でも、そうするにしても順序は大切だ。

― この旅行でこのまま付き合うなんてことは、さすがにできない。

美津は、大介のさえない顔をぼんやり思い出しながら、篤志を上目遣いで見ながら話しかける。

「あのね、1つ話があるの。私、実は今、彼氏がいて…ごめんなさい」

美津の言葉に、篤志の表情が曇った。だから美津は急いで、その先の言葉を口にしようとした。

…つまり「彼氏はいるけれど、ちゃんと別れて、あなたと付き合いたい」ということを。

しかし、それをさえぎるように、篤志は驚きの言葉を口にしたのだった。


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