【球界平成裏面史(60) 近鉄編(1)】平成16年(2004年)にオリックスと合併し、消滅した近鉄バファローズは昭和最後のシーズン(1988年)に伝説の「10・19」のドラマを残した。ダブルヘッダーの残り2試合、連勝だけが優勝への条件。川崎球場で行われたロッテ戦の1戦目は辛くも勝利した。同点の9回二死二塁、このシーズンで引退を決めていた代打・梨田昌孝の決勝適時打でVへの望みをつないだ。

 だが、2戦目は2度の勝ち越しに成功するも10回終了時点で同点。試合時間4時間で新しいイニングには入らない当時のルールもあり、引き分けで西武の優勝が確定した。最後の最後、130試合目で壮絶なV逸。そして、翌年の平成元年(89年)には西武、オリックスとの大混戦を制して念願のリーグ優勝を果たした。

 その優勝から12年後の平成13年(01年)には、パ・リーグ史上初の前年最下位からの優勝を果たした。ダイエー、西武との混戦は最終盤まで続いた。9月24日の西武戦(大阪ドーム)で中村紀洋(現浜松開誠館高コーチ)のサヨナラ弾でマジック1。同26日には北川博敏(現阪神二軍打撃コーチ)の代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打で、歴史的な劇的Vを決めた。

 78勝のうち41回が逆転勝利。チーム防御率4・98(リーグ最下位)の投手陣をチーム打率2割8分、211本塁打、770得点(いずれもリーグ1位)の「いてまえ打線」がフォローした。1試合平均約5点失うが、同5・5得点するチームがリーグを制した。それを象徴したのはローズ、中村紀の3、4番コンビ(計101本塁打、263打点)だった。

 それだけではない。5番には得点圏打率リーグトップ4割1分7厘の礒部(現野球解説者、打率3割2分、95打点)。6番には26本塁打、85打点の吉岡雄二(現日本ハム二軍コーチ)、7番は打率3割1分6厘、21本塁打、72打点の川口憲史(現製パン店経営)と投手をひと息つかせぬ驚異の破壊力だった。

 このころの中心選手は中村紀といっていいだろう。混戦の中で9月8日に5連敗を喫し一時は自力Vが消滅。当時28歳だった若きリーダーはナインを集め「まだ、次に本拠地での西武3連戦(16〜18日)が残ってる。そこでやり返せばわからない。僕はずっと今年はいけると思っている」と鼓舞。その言葉通りに終盤に2位・西武から3連勝しマジック6を点灯させた。

 脂の乗り切った中村紀の注目度は高まった。優勝した翌02年は2位だったが、個人成績は42本塁打、115打点と安定。このシーズンにFA権を取得し話題の中心となっていく。松井秀喜のメジャー移籍で4番の空く原巨人。チーム再建を期す星野阪神。そして、米大リーグ・メッツが争奪戦を繰り広げる展開となった。

 11月5日、FA宣言した中村紀は当時を振り返り「移籍しようと思ったから宣言した」と話す。それが、この当時には本人も予想できなかった結末へと展開する。日米の野球ファンが注目する中、中村紀はどんどん渦巻く中で苦悩を感じることになる。(楊枝秀基)