【越智正典 ネット裏】昭和31年、巨人は日本シリーズで西鉄に敗れた。引き揚げるとき、巨人監督水原茂はナインに凜烈「胸を張れ!」。西鉄は日本選手権初制覇である。

 翌32年春、オープン戦のため九州各地を転戦する遠征バスが平和台球場前に着くと、西鉄ナインは口々に叫んだ。

「オーイ、サイ(稲尾の愛称)を海側の席に座らせるな。海を見ると飛び込むぞ!」
 確かに33年のオールスターゲーム第1戦が平和台球場で終わった晩、サイちゃんは博多湾で泳いでいた。あとでこれがバレて、第2戦の広島に移動する車中で三原監督に叱られた。

 その32年、入団2年目の稲尾和久は、ペナントレースで20連勝、35勝6敗、最多勝。防御率1・37で第1位。大記録である。当然最高殊勲選手。

 西鉄は日本シリーズで巨人を連破した。4勝1敗。稲尾は2勝。公式戦のときからファンは稲尾がマウンドに向かうと、うしろ姿を「神様、仏様、稲尾様」。拝んでいた。ダッグアウトの屋根の上ではファンが正座をし両手をついていた。いちばんはじめにこう言い出したのは監督三原脩である(報知新聞田中茂光氏)。機略縦横。特に筑豊の男たちが湧いた。

 巨人は西条北高校、慶応大学、日本石油、藤田元司(17勝13敗、新人王)が奮戦したが及ばなかった。藤田の奮闘は数字だけでは計れない。先発完投の翌日も救援のマウンドへ。イヤな顔ひとつしないで首を少し左に曲げ向かって行った。言挙げをしない男だった。速かったあー。快速球を投げおろすと、右手が地面の土を払っていた。

 この32年、巨人のキャンプは明石に入る前に淡路島の洲本で第一次を実施した。

 ひる、小憩時に、進学したかったが家庭の事情などでかなわなかった高校出の選手たちが、大きな松の樹の下に集まり、藤田を囲んで質問した。彼らの何よりのたのしみだった。

 聞いていると、藤田はこれは慶応大学のときのことだな…と思えることでも「都市対抗のときにはネ、こうやっていましたよ」。彼らのつらかった思いに心を配っていたのだ。

 藤田は巨人の関西遠征の宿、芦屋の竹園旅館で食事前に、お好みを聞かれると「あるものでいいですよ。なんでもいいです。気を使わないでください」。決まってそう言っていたが、後年、現役のユニホームを脱いでから、毎年暮れになると、三田警察署に「塾の後輩たちがなにかとお世話になっていると思います。ありがとうございます。どうかよい年をおむかえください。気持ちばかりです」と、新年の祝い酒をとどけていた。

 長嶋茂雄が入団した33年、日本シリーズは三たび巨人西鉄。水原三原「宿命のライバル」の対決となった。

 シリーズへの練習が始まると、水原は「バッターボックスのいちばん前に立て。ベースにおおいかぶさるようにして打て! これはわれわれがベーブ・ルースのチーム(昭和9年秋第2回日米野球、全米軍のエースはヤンキースのレフティー・ゴーメッツ)と対戦したときの戦法なんだ」。 =敬称略=