戦死した写真館店主 希望の光を撮影に込め

戦死した写真館店主 希望の光を撮影に込め

 セピア色に染まった乳幼児の写真。青森県三戸町在住の元高校美術教師、松尾篤郎さん(77)の生後6カ月の時のものだ。松尾さんの母が、翌日出征する「ライト写真館」店主、栗谷川渡(わたる)さんに別れのあいさつをするため訪れ、撮影してもらった。松尾さん家族は同写真館で折々に写真を撮ったが、右下に「ライト」の文字が残るのは、この写真だけ。「写真に刻まれた文字を見ると、何かを託されたような気がするんです」

 渡さんは戦時中、通信兵として何度も戦地に向かい、1944(昭和19)年7月、多数の戦死者を出したインパール作戦で亡くなった。32歳だった。渡さんがどんな様子で、どんな思いでこの写真を焼き付けたのか。松尾さんは知る由もない。だが、淡々と自らの仕事をこなし、翌日戦地に向かったと母に聞き、南部町で茶屋を営む、渡さんの孫の柳子さん(47)に伝えようと写真の写しを持ち込んだ。

 渡さんは出征前、自分がいなくても家族が暮らせるようにと写真の撮影、現像、焼き付けの技術を妻・まつさん(故人)に教え込んだ。写真機材、消耗品の多くは外国製。情勢不安が広がる中、手に入らなくなる恐れがあると、大量に仕入れて備えた。写真館は渡さん、まつさんから次代、次々代に引き継がれた。

 三戸町の渡さんの自宅に42(昭和17)年1月、兵庫・姫路の病院に入院中の本人から手紙が届いた。2月上旬に退院し、再び戦地に向かうという。まつさんは取る物も取りあえず、柳子さんの父で、当時4歳の長男・順平さんを連れ、現地に向かった。病院名が分からず、片っ端から尋ね歩いたが見つからない。最後の一軒も「いない」との回答。諦めかけたところ、順平さんがカウンター越しにのぞき込んだ入院名簿に父の名前を見つけ、奇跡的な面会を果たした。その後、渡さんは再び戦地へ。まつさんは「けがをしていれば戦争に行かなくていい。指を切り落としてやりたい」と悔しそうに話したという。

 まつさんは生前、戦争について多くを語らなかった。「それだけ心の傷が深かったのか、あるいは生きていくためにそれどころではなかったのか」。柳子さんは気丈だった祖母の姿を思う一方、詳しい内容をもう知ることができないことを残念に思う。

 柳子さんにとって、渡さんは家に飾っている写真でしか知らない人だった。だが数年前、渡さんからの手紙やはがきを読み、急に身近に感じるようになった。文面は近況を伝える比較的のんびりしたものだが、最後のはがきは「万が一に備えて」と自身の貯金通帳番号を知らせる、切羽詰まった様子に変わっていた。柳子さんは、自分たちと同じ何げない日常を送っていた多くの人たちが戦地に送られ命を落とした事実にがくぜんとし、74年の時を経て、あらためて胸を痛める。

 今春、三戸町を舞台に、県議会議員選挙に絡む町議会議員の大量辞職があった。「このままではいけない」。柳子さんは7月、町議補選に兄と立候補し、共に当選した。任期は来年3月まで。その間にどこまで成し遂げられるかは分からない。だが、祖父の写真が、地域の家族の絆を紡いできたように、自身も「ライト写真館」の名に恥じぬよう、全力で町を照らしたいと思っている。

 元号が令和に変わった。終戦から今年で74年が経過したが、今も戦争を教訓に、今に生かし、次代に引き継ごうとしている人たちがいる。


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