加速する「スーパー資本主義」、持続可能性を前提とする「ポスト資本主義」の「せめぎ合い」はどこへ向かうのか。『科学と資本主義の未来──〈せめぎ合いの時代〉を超えて』著者で、一貫して「定常型社会=持続可能な福祉社会」を提唱してきた広井良典氏が、高度成長期的思考から転換する必要性と「日本の自画像」の再構築を検討する。今回は、全2回の後編をお届けする(前編はこちら)。

「団塊的」な価値観の内実とは

前回の記事で述べている「“団塊世代的”な価値観」とはいったいどのような内実のものだろうか。

私なりに整理すると、それは概ね以下のようなポイントに整理できる性格のものだ。

1)強い「拡大・成長」志向 
2)強い「アメリカ信仰」(&伝統文化への無関心)
3)強い「集団」志向と「ウチーソト」の区別
4)強い性別役割固定 (“カイシャ人間”と専業主婦)

これらはさほどの説明を要しないかと思われるが、若干の注釈を行うならば、1)はまさに団塊世代が生きた高度成長期の日本の姿をそのまま反映するものである。つまり経済や人口が「限りない拡大・成長」を続け、物質的な豊かさが着実に増大し、それを通じて人々の“幸福”が比例的に増加していくのが自明であるような時代状況に対応するものだったと言える。

現在の視点から見れば、それは“経済成長がすべての問題を解決する”という「経済成長至上主義」的な発想であり、そこには「環境」に対する配慮や「分配、格差」をめぐる問題への関心といったことはほぼ不在だったわけだが、当時の日本においてはそうした諸課題もすべて「成長」によって解決されると考えられた。

思えば、そのような思考様式は近年においても――たとえばアベノミクスに象徴されるように――日本においてなお根強いと言え、その意味では団塊的な価値観は決して過去のものではないことになる。