「娘と会えなくなってから13年間、苦しくてたまらなかったかというと正直、そうではありません。娘のことを思い出さない日も、実は何日もありました。自分が生きていくのに必死だったんです。私、母性が少ないのでしょうか……」

冴子さん(仮名、43歳)は、戸惑い気味に打ち明ける。27歳で農家に嫁ぎ、大家族で「嫁」をさせられていた冴子さんは、その生活に耐えられず、精神のバランスを崩して家出した。30歳のときだ。娘は当時2歳で、母親よりむしろ姑、小姑に懐いていたため、そのまま婚家に置いてきた。

「農作業の手伝いや家事が嫁の仕事で、娘の面倒はおもに姑や小姑がみていました。夕食後、私が娘の添い寝をしていたら、寝室の扉をガラッと開けて『やることが違うでしょ、あなたは洗い物をして』と娘を姑の部屋に連れていってしまう、そんなことが日常茶飯事。まだ若くて気が弱かった私は、口答えもできなかったんです」

しばらくして精神の落ち着きを取り戻し、結婚生活をやり直したいと思った。夫婦円満調停を申し立てたが、夫は「無理」と。

「調停では調停員に『まだ若いのだから、夫のことも娘のことも忘れて新しい人生を歩みなさい』と諭され、10日間泣き暮らしました。10日も泣くと、涙って枯れて出なくなるんです。それで、きっぱり諦めました」

「母性」とは縁の薄い寂しい子ども時代

冴子さん自身、「母性」とは縁の薄い育ちをしている。当時としては珍しい共働き家庭に育った。母親は県庁に勤める公務員。冴子さんの面倒は祖母がみてくれていたが、祖母がみきれなくなると、近所の家に転々と預けられた。子ども心に寂しかった。

「赤ちゃんの私が誰かにお風呂に入れてもらっている写真があるんですが、母親に『この人は?』と聞いても『わからない』と。預かってくれていた人のことすら覚えていない。要は、私に関心がなかったということです」

一方で母親は、高圧的でもあった。自分に学歴コンプレックスがあったからか、冴子さんには「県内でいちばん偏差値の高い○○高校から県内の国立大に進学し、音楽教師になれ」と厳命していた。「あの子は成績が悪いから付き合っちゃだめ」などと言うこともあった。

「自分の手で育てていないのに、金と口だけ出してくるのがすごく嫌だった。子どものころピアノを習っていて、その先生にいつも母親の悪口を言っていたのを覚えています」

母親は、それなりに娘を愛していたのだろう。でも、それは冴子さんにはうまく届かなかった。いまでも母親との折り合いはよくない。

「出産で実家に戻っていたとき、母親が私との関係について『ボタンを掛け違えてしまった』と言いました。私も『そうだね』と答えました」