第1次世界大戦の終盤から世界的に流行した、死に至る病「スペインかぜ」は、旧日本海軍の軍艦においても感染が広がりました。閉鎖された空間での感染爆発がいかに恐ろしいものであるか、その教訓をいまに伝えています。

第1次世界大戦のさなか人類に襲い掛かった「スペインかぜ」

 新型コロナウイルスが猛威を振るう2020年4月末現在、長崎に停泊していたイタリア船籍のクルーズ船「コスタ・アトランチカ」において、乗員のあいだでクラスター(集団感染)が発生しています。イギリス船籍のクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」における乗客乗員のあいだでのクラスター発生も記憶に新しいところです。

 いまから100年以上前の第1次世界大戦中にも、旧日本海軍の軍艦、初代「矢矧(やはぎ)」で同様の事例が見られました。スペインかぜ(スペインインフルエンザ)のクラスターが発生したのです。

「スペインかぜ」は起源や蔓延の経緯に諸説ありますが、第1次世界大戦末期の1918(大正7)年春ごろにはヨーロッパで流行し、同年秋には世界中に蔓延、そして1921(大正10)年ごろまで各地で猛威を振るったといわれています。

 日本でも1918(大正7)年10月に大流行が始まりましたが、「矢矧」は日本で感染したわけではありません。「矢矧」でクラスターが発生したのは、作戦行動中の外洋においてだったのです。

「矢矧」は第1次世界大戦が勃発する前の1911(明治44)年10月3日に、筑摩型防護巡洋艦の2番艦として進水、翌年の1912(明治45)年7月27日に就役しました。

閉鎖された艦内での集団生活が致死率16%を誘引

 1914(大正3)年7月に第1次世界大戦が勃発すると、日本は当時、同盟を結んでいたイギリスを助けるために、8月23日、ドイツに対して宣戦布告します。これにより日本海軍は、ドイツが中国および南太平洋に持っていた租借地や植民地を占領するために艦隊を派遣することを計画、「矢矧」もその一員として投入されました。

 これらドイツの拠点を占領すると、今度はイギリスから、ヨーロッパやインドとオーストラリアを結ぶ商船航路をドイツ海軍の攻撃から守ってほしいという要請が出たため、インド洋に対して艦艇を派遣することになります。

「矢矧」もインド洋や南シナ海で任務に就いたのち、ほかの艦と交代するために1918(大正7)年11月9日、シンガポールへ入港しました。ここで「矢矧」は乗組員を上陸させたことで、スペインかぜの集団感染を引き起こすことになります。

 前述したとおり、当時、スペインかぜは日本を含む世界各地で流行しており、日本海軍のほかの艦艇でも感染者が発生している報せは「矢矧」にも届いていました。しかし「矢矧」の艦長は、陸地を前にして乗組員を艦内に閉じ込めておくのは士気に影響すると考え、上陸を許可したのです。

 その結果、11月30日にシンガポールを出港しフィリピンへの航路の途上、艦内でスペインかぜのクラスターが発生し、看護兵(衛生兵)や軍医まで倒れる状況に陥ります。「矢矧」にはシンガポールからの便乗者を含めて469名が乗っており、306名が発症、そのうち48名が死亡したのです。これは、発症率としては約65%、致死率は約16%にも上るものでした。

 当時の日本国内におけるスペインかぜの発症率は約43%、致死率は約1.6%との記録があります。致死率で比較すると、「矢矧」においては10倍もの極めて高い数値であったことがうかがえます。

軍艦「矢矧」のクラスターが現代に伝える教訓

 1918(大正7)年12月5日、「矢矧」はフィリピンのマニラへ到着しました。来艦者は、艦内の至るところに寝込んでうめいている多数の乗組員を目撃し驚いたそうです。12月9日には、スペインかぜに罹患し現地の病院へ収容されていた、艦のナンバー2である副長も死去しました。

「矢矧」の場合、軍艦として作戦行動中のため、安易に救難信号を出したり、予定を変えて寄港したりすることが難しい状況だったことが、クラスターの発生に影響していたかもしれません。また長期航海による乗組員へのストレスや疲労の影響も無視できないでしょう。

 なお、このスペインかぜの艦船内感染は「矢矧」に限ったことではなく、アメリカの兵員輸送船「リヴァイアサン」号でも起きていました。こちらは船内に輸送される兵士と乗組員合わせて1万1000名程度が乗り込んでいたそうですが、そのうち約2000名が発症し、下船後の死亡を含めて約200名が亡くなっています。

 この時代は、現代と比べて医療体制や栄養状態も悪かったでしょうが、それでも密閉空間での集団感染がいかに怖いものであるかを伝える教訓にはなります。改めて水際での感染阻止と、感染確認後の速やかな隔離、そして免疫力の向上が必要であるといえるのではないでしょうか。