世界最大の戦艦として名を刻む旧日本海軍の「大和」。艦隊決戦の切り札として期待されていましたが、その建造は極秘であり進水式もひっそりと行われました。情報の隠蔽はどれほどにまで及んでいたのでしょう。

極秘に行われた「大和」の進水式

 2020年は戦艦「大和」が進水して80年の節目の年です。同艦は1937(昭和12)年11月4日に広島県呉市にあった呉海軍工廠の造船船渠(ドック)で起工、1940(昭和15)年8月8日に進水式を迎え、そのときに「大和」と命名されました。

 進水式典には、天皇陛下の名代として、皇族であり海軍大佐の地位にあった久邇宮朝融王(くにのみや あさあきらおう)が臨席したものの、見物人などはおらず、建造にかかわった工廠関係者約1000人が見守るなか、静かに行われました。

 旧日本海軍の期待を背負って誕生した史上最大の戦艦の進水式にもかかわらず、軍楽隊の演奏などなく、万歳も拍手も起きなかったそうですが、なぜそのような式典とされたのでしょう。そこには、当時の世界情勢が大きく影響していました。

「大和」の進水からさかのぼること6年前の1934(昭和9)年10月、日本政府および旧日本海軍は、戦艦をはじめ主要艦の保有量に制限を課していた「ワシントン軍縮条約」の破棄を決めます。条約を締結した諸外国に対しては同年末の12月29日に通告しますが、それにあたり新型戦艦の建造に着手します。

 1936(昭和11)年には、新型戦艦の主砲を46cm砲にすることが決定。これは当時、アメリカ海軍の戦艦が、パナマ運河を通過するために艦の全幅に制限が設けられ、それに伴って16インチ(41cm)よりも大きい主砲が搭載できないことを見越して、日本戦艦の優位性を保つために採られた措置でした。

「大和」建造を悟られないための徹底的な隠蔽とは

 旧日本海軍は、1937(昭和12)年3月末に最終的な設計案として、基準排水量6万4000トン、全長263m、46cm砲9門、最大速力27ノットという新型戦艦の基本スペックを定めます。

 しかし、そこまでの巨大戦艦を造れる造船所は、日本には呉と横須賀の両海軍工廠、そして民間の三菱長崎造船所の3か所しかなかったため、最も規模が大きい呉海軍工廠で1番艦が建造されることになりました。

 とはいえ建造を進めるなかで、アメリカやイギリスなどの諸外国が新型戦艦の概要をつかみ早々と対策を講じてしまうと、新型艦といえども戦略的価値は早い段階で低下してしまいます。

 そこで極力、諸外国の新型戦艦対策が後手に回るよう、就役までその存在をひた隠しにすることにしました。建造ドックには大きな屋根を付け、屋根のない部分を隠すために棕櫚(しゅろ)の葉で作った筵(むしろ)も大量に用意しています。

 さらに、造船ドックが見える位置にある民家には、海側の窓を開けることを禁止し、道路には目隠しのための塀を立てました。また近傍を走る鉄道には、海側に長いトタン板の垣根を設置し、さらに列車も海側の窓は全閉にするよう通達を出したのです。

 とうぜん、工廠を出入りする作業者たちは逐一チェックされ、見学は海軍大臣の許可証がなければ厳禁でした。

起工から沈没まで知らされなかった「大和」

 ここまで建造がひた隠しにされたからこそ、進水式典も冒頭に述べたとおり、ひっそりと行われたのです。

 旧日本海軍の対策は徹底しており、進水式当日には、呉市内で陸戦隊が市街戦演習を行うことで市民の目をそちらに逸らし、併せて市内要所には警官や憲兵を配置しました。海上には警備艇を出し、港内を行き交う船舶に目を光らせただけでなく、煙幕を展張してドックを覆い隠すことまで行ったそうです。

 こうしてひっそりと進水した「大和」は、そののち艤装や公試も様々な隠蔽のなかで行われ、1941(昭和16)年12月16日に就役します。しかし運用が始まったあとも一般の日本国民には秘匿され続け、一部報道などで巨大な新鋭戦艦が存在するということは明らかにされたものの、艦名を含めて詳細は戦後まで公にされませんでした。

 戦艦「大和」は1945(昭和20)年4月7日に鹿児島県坊ノ岬沖で沈みますが、このことも国内で報じられることはありませんでした。

 いまでは、呉市の至る所で戦艦「大和」に関するものが見受けられます。75年前ほとんど知られていなかったことと比べると、まるで真逆のようです。しかし、そのようにPRできるということは、それこそ日本が平和であることの証左なのかもしれません。