アフガニスタン復興に半生をささげ、凶弾に倒れた医師の中村哲さんに迫るシリーズの2回目です。

現地の言葉で「カカ・ムラド」、「中村のおじさん」と慕われてきた中村医師は、戦乱が続くアフガンから一貫して反戦を訴えてきました。

その信念のルーツをたどります。

戦乱が続くアフガニスタン。

アメリカとの紛争やイスラム過激派組織によるテロ行為が続く中、中村哲医師は長年、難民の救済に力を注いできました。

未曾有の干ばつで赤茶け、すっかり乾燥した広大な大地。

白衣ではなく作業着をまとった中村医師は、水の確保と用水路建設に尽力しました。

【彼らは殺すために空を飛び我々は生きるために地面を掘る】
(ペシャワール会報より)

若松が誇る作家・火野葦平は中村医師の伯父。

日中戦争出征中に芥川賞を受賞しました。

【火野葦平資料館 坂口博館長】
「あってはならない、戦地で作家が受賞するというのはあってはならないと思いますけど、この芥川賞というのは最大の転機かもしれません。それをもらわなければその後の火野葦平というのはあり得なかったでしょうし」

戦争に出征した葦平は、軍にその筆力を買われ「報道班員」に任命されました。

最前線で広がる惨状や兵士達の苦悩だけでなく、その中で見出した美や希望も書き残しました。

葦平の従軍手帳には小さな字がびっしり。

その記録は、「麦と兵隊」を始めとする兵隊三部作として出版され、葦平は一躍、国民的作家に上り詰めました。

【火野葦平資料館 坂口博館長】
「悲惨な戦地の状況をなんとか日本の内地に伝えたいという思いで、その象徴的なものがよく当時の検閲を通ったなと思うんですけど、戦地では皆ダイナマイトを羊羹代わりに食べているという、ダイナマイトは甘いらしいんですね」

「いわゆる甘いものが不足してるものだから、変わりに食べているという話を」

しかし戦後、状況は一変、葦平は戦争協力者として公職追放を受けました。

【火野葦平の三男 玉井史太郎さん】
「葦平を戦犯作家だとか兵隊作家というように代名詞で呼ばれるんですけど、私はそれは大きな誤解だと思ってですね」

葦平の三男、玉井史太郎さん。

葦平が暮らした家、『河伯洞』を今も守り続けています。

戦争責任を厳しく問われた葦平ですが、作家として兵隊のありのままの姿を描いたに過ぎないと史太郎さんは考えています。

【玉井史太郎さん】
「自分が兵隊になったからその姿を描いたんだと」

「決して戦争に協力したり軍部の旗振りをしたりするような文章ではなかったと、私は今でも思っています」

幼いころをここ若松で過ごした中村医師。

葦平とも顔を合わせ、河伯洞の座敷も走り回っていました。

その葦平のことを、中村医師はこうつづっています。

【愛してやまぬ人の情の美しさを謳い、弱さや醜さの中にも、きらりと輝く美を発見しようとする】
(「天、共にあり」より)

同時多発テロ以降、アメリカの空爆と干ばつにあえぐアフガニスタン。

アメリカに追従して自衛隊を派遣し、アメリカ軍への給油支援を行う日本政府に中村医師は厳しい目を向けました。

【自衛隊派遣は有害無益、飢餓状態の解消こそが最大の問題である】

【中村哲医師】
「どんなことがあっても武力はもちろん絶対に制裁、報復に対して報復を加えるということは憎しみを倍加させるだけ」

【若松港を見下ろす高塔山の頂の文学碑に刻まれている一句は、やはり心にしみる】
(「天、共にあり」より)

【泥に汚れし背嚢にさす一輪の菊の香や異国の道をゆく兵の眼にしむ空の青の色】

危険な戦地の惨状を国民に知らしめようとした葦平。

その姿に中村医師は自身を重ね合わせていたのでしょうか。

【玉井史太郎さん】
「危険も顧みずに現地に行って何か行動を起こすという点は『葦平と同じような仕事しよるな〜』ってことで笑ってましたけどね…」