日本中に知られた勇将・本多忠勝が初代藩主をつとめた大多喜城(千葉県)。江戸時代のはじめ、大多喜近くの千葉県御宿の沖で一隻の外国船が座礁し、船に乗っていた船員たちは大多喜の人々によって助けられました。ドン・ロドリゴは、大多喜城下にも滞在し『日本見聞録』に当時の様子をしためています。外国人から見る「大多喜城」とは、一体どのような城だったのでしょうか?(※2020年7月14日初回公開)

大多喜城と初代藩主・本多忠勝

天正18年(1590)豊臣秀吉による「小田原攻め」が行われ、その結果、徳川家康は関東へと移封。現在の千葉県夷隅郡一帯は本多忠勝が10万石で拝領し、大多喜城を近世城郭へと大改修しました。

城は、夷隅山系の山々や夷隅川に囲まれた平山城で、標高73mの山頂に本丸、山麓に御殿のある二ノ丸、さらにその外側に三ノ丸がある構造です。本丸にはかつて天守が築かれていたようですが、天保13年(1842)の火事で焼失。現在は、天守を模した博物館が建ち、房総の城や城下町をテーマにした展示や、刀、鎧、衣装などが鑑賞できます。

初代藩主の本多忠勝は、徳川四天王の一人として知られる猛将です。今の愛知県岡崎市に生まれ徳川家康に仕えました。

彼の勇猛っぷりは凄まじく、こんな褒め言葉も生まれています。元亀3年(1572年)、徳川氏と武田氏が戦った「一言坂の戦い」では、敵将から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と賞賛されています。この本多平八とは忠勝のこと。つまり、家康にはもったいないほどの優秀な家臣だという意味です。世間からも認められる武将のなかの武将! カッコイイですね。

子の忠朝、甥の政朝と藩主が移った後は、阿部氏、青山氏、稲垣氏が藩主を勤め、元禄16年(1703)には松平正久が入城。明治維新まで松平氏が9代にわたり大多喜を治めました。