コロナ禍、精神論より政治家に求められるもの 科学的判断と有効な対策、分かりやすく伝えること

By 西澤真理子

5月6日、ドイツ・ベルリンで記者会見場に姿を見せたメルケル首相(ロイター=共同)

 ドイツが新型コロナ危機の第一フェーズから脱出した。5月6日の記者会見。目の覚めるような赤いジャケットを羽織ったアンゲラ・メルケル首相は、これまでの厳しい表情から一転、安堵した表情を見せ経済活動の緩和策を発表した。先月20日から小規模商店の再開を承認していたが、さらに、大規模デパートや家電量販店を始め、国内の全商店の営業再開を認めた。学校も再開。人気プロサッカー「ブンデスリーガ」も今月下旬から開幕する。先進各国がコロナ対策で後手に回る中、なぜメルケル首相は「成功」したか。

 「心を一つにしてコロナに打ち勝とう」。日本国内では、響きのよい言葉が聞こえる。誰かを励ますためにそれ自体は悪くない。しかし、政治がやるべきは精神論より新型コロナの科学の理解、リスクに対応する手順の再確認。言い換えれば、科学に基づいた的確な判断、有効で透明性のある対策の実行、それらを分かりやすく社会に伝え、信頼を得ていくことだ。(リスク管理・コミュニケーションコンサルタント=西澤真理子)

 メルケル首相は、科学に基づくコロナ対策を着実に打ち出すことができた。新型コロナは科学を理解することでより正確にコントロールできる。そこにドイツの強みがあった。メルケル首相はドクターを持つ物理学者だ。コロナの科学を理解し、正確な施策を瞬時に判断、実行、その内容を自ら国民に伝え協力を得ることができた。

 ドイツ政府の一連の行動の根底にはリスクに対応する手法、リスクアナリシスの考え方がある。まずはこの手法を簡単に説明したい。

 ▽リスクに対応する考え方:リスクアナリシス

 リスクアナリシス(リスク解析:risk analysis)では、科学判断、政策判断、伝える、の三つの要素を実行する。

1、リスク評価(科学的なリスク判断)

 リスクがどのような種類の、どの程度のリスクかを最新の科学で判断する。これは科学者の仕事だ。科学評価に政治介入がないよう独立し距離を保つことがポイントである。

2、リスク管理(リスクコントロールのための政策・経営判断)

 次にリスク評価に基づき有効な施策を打ち出す。ポイントは、リスクはゼロにはならず、あるリスクを小さくすると、別のリスクが大きくなること(リスクトレードオフ)。新型コロナの感染リスクを短期間でゼロに近づけようとすると、経済的リスクが大きく出る。

 よって、感染リスク低減にはALARA(As low as reasonably achievable アララ:合理的に達成できる範囲で出来るだけ低く)や、ALARP(As low as reasonably practicable アラップ:合理的に実行できる範囲で出来るだけ低く)の指標を用いる。非現実的なゼロリスクを目指さず、どの程度までリスク低減を社会が許容出来るかの範囲を決めることが鍵になる。リスク評価とリスク管理は分離され、後者は政府や行政の仕事だ。

3、リスクコミュニケーション(伝える)

 リスクコミュニケーションでは、「どのようなリスクか」「どの程度のリスクか」「それにどう対応するか」を伝える。言い換えれば、1と2を伝えること。ポイントは、立場の異なる複数が伝える相手であるため、冷静に、相手の視点に立ち、相手が咀嚼(そしゃく)できる、はっきりした言葉で、安心感を得られるよう伝えること。リスク管理を伝えるのは政府や行政だ。リスク評価を伝えるだけならばリスク評価を行った科学者である。

 危機時にはより迅速さが求められる「クライシスコミュニケーション」を行う。憶測や風評による混乱を避け、人命損失を出来るだけ下げるため安全情報を「速やかに」「タイムリーに」「分かりやすく」伝える。複数の人が個別に情報発信してしまうことで伝える内容に齟齬(そご)を生まないよう、社会に向けてのメッセージの発信者を決め、「ワンボイス・ワンメッセージ」を実践し、「分かりやすく、短い言葉を繰り返す」。

ドイツ西部アーヘンの病院の集中治療室で新型コロナウイルス感染者の治療に当たる医療従事者=4月(ゲッティ=共同)

 ▽危機を脱したドイツの対応

 ドイツの話に戻ろう。5月7日現在、ドイツの陽性者数は約16・6万人、死者が7119名(死亡率4・3%)、回復者が約14万人だ(ロバート・コッホ研究所〈RKI〉報告)。決して死者が少なくないが、その中でドイツが緩和に踏み切った理由は明確になっている。一日当たりの新規感染者が千人を切り、一人の患者から新たに何人に感染するかを示す再生産数(R0)が収束の目安となる「1」を大きく下回ったこと、クラスター追跡が成功していること、病院でのICU数がひっ迫しておらず医療崩壊が起きていないことなど、具体的な設定目標(出口目標)を達成できたからだ。

 コロナリスクの科学評価は、連邦保健省下のRKIが再生産数を毎日計算している。ドイツは、コロナウィルスの陽性者を発見するPCR検査の実施数が人口当たり数で多く、コロナが広がる初期段階から検査結果に基づきROを計算してきた。その結果はメルケル氏に毎日報告されていたと報道されている。RKIのウェブサイトでも数値が公開、更新され、5月7日時点ではROは0・71。透明性が高い。

 リスク判断は、RKIの研究者、ウイルス学者の助言を受け、メルケル氏が率いるドイツ政府がリスク管理を引き受けている。今回の緩和措置決定では、「少しだけ大胆になれたが、引き続き注意は必要」とメルケル首相が発言したよう、公共の場でのマスクの着用、店舗内の人数制限、ソーシャルディスタンス(1・5メートル以上)を求めつつ方針転換した。ただし、人口10万人当たり感染者が50人を超えた地域では即座に厳しい行動制限を実施、リスクが大きくなった場合、すぐに対応する仕組みを導入した。なお、経済活動が再開されたことで、ROが5月9日から「1」をわずかに超えている(5月10日では1・13)。ただし、この数字は不確実で、数日は数値の変化を注視する必要があるとRKIが説明している。たとえ感染率が上昇傾向でも、その動向の把握は可能との自信をうかがわせる。

 経済活動再開についての社会へのコミュニケーションは、6日に行われた。連邦政府と州政府との会合で「危機の第一のフェーズを脱した」とメルケル氏が自信を持って語った。専門家から提示された数字を発表したのではなく、なぜ解除できるかの根拠を自身で理解し、自分の言葉で判断に至った経緯を説明した。

 「これはパンデミックの始まりであり、長期にわたってこの疫病と付き合う必要がある」「各州の保健所の皆さんにはこの場を借り感謝する」「この目標が達成できたのは市民が行動制限に協力し、互いの命を助けあえたからだ」と、市民が油断しないよう警告しつつ、感謝を述べたことも印象的だ。

 科学と感情を理解しているメルケル首相のリーダーシップ。それを科学と行政がしっかり固めているからこそ、欧州でいち早く、危機の第一フェーズを脱した。

 ▽クライシスコミュニケーションのお手本

 メルケル首相はクライシス時のリーダーのお手本でもある。専門家に任せるのではなく、科学、数字を自分で咀嚼し理解し、判断材料に使い、論理的に考え決断する。

 クライシスコミュニケーションでも秀でている。個人の生活への介入 経済の苦渋を市民に迫るのであれば、真摯なメッセージを市民に伝える必要がある。

テレビ演説するドイツのメルケル首相=3月18日、ベルリン(ロイター=共同)

 「深刻です」。3月18日、メルケル首相はロックダウンに先立ちテレビ放映された国民向けスピーチで何度も訴えた。メルケル首相は頑固だが真摯で、嘘はつかないと多くのドイツ人が思っている(筆者はメルケル首相就任時まで長くドイツに居住していた)。「皆さん深刻に受け止めてください」と言われたら、それは真実なのだと思う。

 「ウイルスには薬もワクチンもありません。感染拡大を遅らせるには私たちが行動を変えること以外にない」「ドイツには素晴らしい医療制度があります。でも、短期間に多くの重症者が病院に運び込まれると治療が間に合いません。(患者は)数ではないのです。おじいさん、おとうさん、おかあさん、おばあさん、パートナーです。人なのです」。

 真正面を向いて画面越しに熱を持って訴えかけた。「(祖父母に)対面で会えなくてもスカイプで話すとか、手紙もあります。郵便は普段通りです」「食料品の棚が空になっても翌日には補充されます。レジの方、棚を一杯にしてくれている方、滅多に感謝されることはないでしょうが、最も大変な仕事をしてくださっています。ありがとうございます」「パニック買いは止めてください。連帯意識に欠けた行為です」「皆さんどうぞお大事にしてください」、励ましやいたわりの言葉も忘れない。

 メルケル首相の発言には取ってつけたような印象がなく、自然だ。日常で自らスーパーに行って買い物し、普通の生活を送っていると報道されている通りだ。

 メルケル氏は数回、国民向けメッセージを発しているが、どれもゆっくりした速度、外国人でも分かるやさしいドイツ語で、意識的にはっきりと話している。普段はもっと早口だ。

 「皆さまに保証します。連邦政府は経済の打撃を和らげるため、雇用を守るため全てできることを執行しています。政府は最も困難なこの時を乗り越えるために必要なものをすべて投入する能力があり、実行に移します」。経済措置も国民に約束した。実際、筆者の友人であるドイツ在住の画家は、ほんの15分をかけてインターネットから給付金を申し込んだ数日後、銀行に大金が振り込まれたと教えてくれた。

 国民に向けたスピーチではメルケル首相の誠実さ、真摯な態度が伝わり、「頼っても大丈夫」と、安心感が生まれた。有言実行で素早く対策を打つ。これが信頼の源だ。メルケル氏は決して多弁ではない。しかし科学とマネジメントを理解しその重要性が分かっているから状況を俯瞰(ふかん)して見ることができ、自信をもって自らが伝えることができる。

 新型コロナ対応でのコミュニケーションに必要な事は、説明が単に上手いということではない。まずは政府や関係者がリスクアナリシスを理解することだ。順序は、科学(専門家の試算によるファクト)⇒判断(それを理解し政策に落とし込めた戦略)⇒伝える(科学を咀嚼し判断の結果をメッセージとして投げる)。これを繰り返す。

 政治家は科学者や専門家、行政よりもより市民に近い。だからこそ、コミュニケーションでは、科学に基づき実行性のある施策を打ち立て、相手視点で分かりやすく伝え、安心感を醸成していく。

 専門家だけに任せては大事なことは伝わらない。政治家のリスクコミュニケーションのあり方としても、メルケル首相はお手本になる。

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