中国政府に跳ね返る「国家の安全」 香港国家安全維持法、施行2カ月で見えてきたこと

香港国家安全維持法(国安法)に反対する東京でのデモで、習近平国家主席のイラストを手に抗議する男性

 6月30日に「香港国家安全維持法(国安法)」が施行されて2カ月がたった。民主派の政治活動取り締まり、進む自己検閲、国際社会との摩擦拡大…。香港では激動が続いている。逃亡犯条例改正案に端を発した中国主導の国安法施行で、香港は、そして中国はどこへ向かうのか。(立教大学法学部教授=倉田徹)

 ▽何が罪か分からない法律

 国安法の最大の特徴は透明性の低さだ。まず、立法過程がほぼ隠された。

 中国全人代は開催前日まで国安法の制定の意思を明らかにせず、制定の過程においても法の中身を示さず、現地時間6月30日午後11時に施行される瞬間まで、条文の内容は秘せられた。このようなやり方は、香港はもちろん、過去数十年の中国の立法作業でも前例がないという。

 発表された条文も極めて曖昧である。国安法は国家分裂・政権転覆・テロ・外国との結託に関する罪を定めているが、具体的に何をすれば罪になるかが分からない。暴力行為はともかく、言論や表現活動をどこまでやれば違法になるのかは、明文で書かれてはいない。

 この曖昧さは明らかに意図されたものであろう。何が罪になるか分からないことは、裏を返せばどこまで合法かが分からないということでもあり、多くの行為が罪とされる可能性がある。これは取り締まる側にとって最も有利で、取り締まられる側にとっては極めて不利である。

7月1日、香港で国家安全維持法の施行に抗議するデモ参加者ら(ゲッティ=共同)

 ▽旗を持っていただけの市民を逮捕

 結果的に、国安法は猛威をふるっている。まず標的となったのは、昨年来の無名の市民による抗議活動であった。施行翌日には早くもデモの現場で10人が逮捕された。

 最初の逮捕者の容疑は「香港独立」と書かれた旗を持っていたことであった。そして政府関係者は、「光復香港・時代革命(香港をとり戻せ、時代の革命だ)」という、昨年来多用されたデモのスローガンや、警察の取り締まりを厳しく追及することなども、条文の曖昧さを利用して違法「かもしれない」と指摘し、警察は民主派支持者の商店などを回って、違法「かもしれない」スローガンなどを撤去させた。

 こうした弾圧を前に、市民は自衛に走るほかない。香港では自己検閲が広がり、自由はかつてないペースで縮小している。黄之鋒(ジョシュア・ウォン)や周庭(アグネス・チョウ)が所属した「香港衆志」をはじめ、若者の政治団体は多数が国安法施行直前に自ら解散した。

 続いて、同法はより目立つ議員や活動家による政治活動を取り締まり始めた。学生による独立派団体の幹部の逮捕、海外で活動する者の指名手配に続き、8月10日には警察は民主派寄りの新聞『蘋果日報』の創業者・黎智英(ジミー・ライ)や、日本でも知られる周庭など6人を国安法違反容疑で逮捕した。

8月10日、香港警察に連行される黎智英氏(右から2人目)(AP=共同)

 ▽中国政府、「デモ陰謀説」正当化狙う

 この取り締まりは、中国政府による昨年来の抗議活動についての説明を「裏付ける」ために行われているように見える。

 昨年の抗議活動は、ネット等で呼びかけに応じた市民による自発的な参加が主で「リーダーのいないデモ」とされた。そして、巨大なデモや、抗議活動に対する強い共鳴を裏付ける各種の世論調査結果、そして昨年11月の区議会議員選挙での民主派の圧勝を見れば、市民の多数派が抗議活動を支持しているのは明らかであった。

 しかし、中国政府は情報を統制しつつ、このデモは外国勢力を背後に持つごく少数のリーダーによる陰謀とメディアで説明し続け、中国国民の香港と米国に対する激しい嫌悪を植え付けた。

 中国の世論を満足させるためには、このストーリーに沿って取り締まりを行う必要がある。政府は多くの市民には自己検閲を誘導し、黙らせて「善良な市民」とする一方、リーダーには厳罰を与えて中国国民を喜ばせている。黎智英が逮捕された翌日、香港の共産党系新聞『大公報』の1面トップは、連行される黎智英の写真を大きく掲載し、「大快人心(気分爽快)」との見出しを添えた。

 中国の内政を踏まえれば、香港の民意や現実がどうあろうと、政府はこのストーリーで弾圧を進めるしかない。

香港国家安全維持法違反容疑で逮捕された民主派活動家の周庭氏=8月10日、香港(ゲッティ=共同)

 ▽加速する民主派弾圧

 民主派への弾圧はこれ以外でも強化されている。民主派が立法会議員選挙の候補者を絞るために行った予備選挙という民間の人気投票イベントも、政府は国安法違反かもしれないと指摘した。投票前夜には警察が主催団体に別件容疑で捜索に入り、コンピューターなどを押収した。

 「政府を妨害すること」も罪とする国安法によれば、民主派が選挙に勝ち、政府法案や予算案に反対すること自体が違法なのである。民主主義国家では話にならない論理であるが、国安法制定を5月28日に賛成2878票、反対1票で可決した全人代を議会と称する中国の価値観では、議員が政府に協力するのはむしろ当然のことと見なされるのかもしれない。

 抗議活動に関連した違法集会などの容疑での民主派逮捕も続いている。8月26日には、昨年7月21日に鉄道駅で謎の白シャツの集団がデモ参加者と見なした者を襲撃した事件で、現場に駆けつけた際に列車内で暴行され、負傷した側の民主派の立法会議員が暴動罪の容疑で逮捕されるという出来事も起きた。

記者会見するトランプ米大統領=8月13日、ワシントン(ゲッティ=共同)

 ▽中国政府に高い代償

 こうして、中国政府の説明は「事実」になって行くが、その代償は高い。まず、国際社会の強い反発により、中国・香港への制裁が開始された。中でも米国は、一部技術の輸出停止、林鄭月娥(キャリー・ラム)香港行政長官を含む中国政府・香港政府の国安法関連幹部への制裁、香港製品を「香港製」ではなく「中国製」と表示することの義務づけと、矢継ぎ早に制裁を打ち出している。

 これらの制裁にはまだ手加減がされている。米ドルと香港ドルの交換を妨害するような金融制裁については、トランプ政権はその影響が米国にはね返ることを恐れ、見送っているとされる。また、香港問題担当の韓正副総理などの北京の最高幹部を制裁することも避けられている。しかし、米国が弱い制裁しかできないと結論づけるのは早計であろう。制裁に中国は報復で応じている。これは、大統領選で対中強硬姿勢を売りにしたいトランプ氏にとっては、次の制裁を繰り出す口実になり、むしろ好都合かもしれない。

 一方、制裁は単なるトランプ氏の気まぐれとも言い切れない。ポンペオ国務長官が7月23日の演説で、ニクソン大統領以来の対中関与政策を失敗と切り捨てたように、米国の対中政策に転換が生じたのであるとすれば、今後仮に「バイデン大統領」が誕生しても、対中強硬策が10年単位で続き、あるいは徐々に強められて行く可能性もある。

米中両国の国旗とティックトックのロゴ(ロイター=共同)

 ▽浮かび上がる「国家の安全」の皮肉

 その前提下では、企業は政治の圧力を真剣に考えなければならない。国安法施行後、中国発のアプリ「ティックトック」が香港からの撤退を表明した。国安法を根拠に中国政府に情報提供していると、世界に数億人とされるユーザーから疑われることを回避するためとされる。

 『ニューヨーク・タイムズ』紙は、デジタルニュース業務の拠点を香港からソウルに移転すると発表した。金融機関は制裁対象とされそうな政治関係者の口座を精査しているという。少なからぬ香港の外資企業が、国安法による中国政府・香港政府からの締めつけと米国の制裁の二つのリスクの下で、撤退や事業縮小を検討していると報じられている。

 国安法は中国が自らの論理を堅持するための必死の策であった。しかし、その代償として、中国は国際関係の緊張と経済のリスクを負った。これこそ真の「国家の安全」の問題ではないか。恐らく、昨年の早い段階で香港政府が譲歩していればとうに解決していたと思われる、「逃亡犯条例」の改正案への賛否という小さな問題を、「国家の安全」の問題と位置づけた中国の論理が、こうして現実になりつつあるのは実に皮肉なことである。

© 一般社団法人共同通信社