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伊原春樹コラム

前人未到の400勝を挙げているのに偉ぶることがまったくなかった金田正一さん/伊原春樹コラム

 

月刊誌『ベースボールマガジン』で連載している伊原春樹氏の球界回顧録。2019年11月号では金田正一氏に関してつづってもらった。

ノーサインでのピッチング


ロッテ監督時代の金田氏。厳しい練習を課して、選手を鍛え上げた


 前人未到の400勝をマークした金田正一さんが10月6日、午前4時38分、急性胆管炎による敗血症のため、都内の病院で死去した。86歳だった。まずはお悔やみの言葉を申し上げます。

 金田さんの現役時代に関しては、私もしっかりと見たことはない。広島の山間部で生まれ育ったので、テレビが映らなかったからだ。ただ、プロに入り、いろいろな人から金田さんの現役時代の話を聞くことはあった。例えば猛練習に関して、だ。1965年、国鉄から巨人へ移籍した金田さんだが、川上哲治監督はキャンプでの練習に励む姿を見たら、「金田には何も言うことはない」とほったらかしになったという。コーチが課す練習以上のトレーニングをやっていたそうだ。大ベテランの金田さんが猛練習を続けるから、ほかの選手も同じようにやるしかない。金田さんを獲得した川上監督の狙いは、まさにそこにあったようだが、金田さんが加入した65年に巨人は優勝を果たす。そこから栄光のV9に突き進んでいくわけだが、まさに金田さんがその礎を築いたと言って過言ではないだろう。

 いまあらためて金田さんの生涯成績を眺めてみると、信じられない数字が並ぶ。享栄商高3年夏の愛知大会で敗れた後、中退し、国鉄へ入団。すぐに一軍で投げ始め、1年目は8勝をマーク。そこから22、24、23、23、29、25、28、31……と14年連続20勝以上を挙げた。投球回数も55年の400イニングを筆頭に、14年連続300イニング超え。防御率もほぼ1点台で通算2.34。貧打で援護が望めない国鉄打線がバックだから、自分が抑えて勝つしかなかった。だから、負け数も多かった。298敗も歴代1位だ。

 ストレートとカーブのみで、この成績を残したところもすごい。そういえば国鉄で金田さんとバッテリーを組んでいた根来広光さんにも話を聞いたことがある。根来さんと私は同郷ですごくかわいがってもらっていたのだ。金田さんはノーサインだったということを耳にしたことがあったので、その真偽を確かめてみた。

「本当にノーサインだったんですか?」と質問すると、根来さんは「そうだよ」とひと言。続けて、「サインなんか出してみな、逆のボールが来るから」。あるとき、根来さんが金田さんに「サインどうしましょうか」と言って決めたが、カーブのサインなのにストレートを投じてきた。「いまのはカーブですよ」と訴えても、「そうか」と言うだけ。結局、言うことを聞いてくれないから「好きに投げてください」とノーサインになったそうだ。2球種しかないので、全部ストレートだと思って構えていれば、カーブはなんとか捕ることはできる。それで対応していったそうだ。

 いま思うのは金田さんが投げているとき、打席に立ってみたかったということだ。対戦したいなんていう、おこがましい気持ちからではない。単純に球史に残る大投手のボールを体感してみたいという思いからだ。どれほど球速のあるストレートを投げていたのか、どれほど落差のあるキレ味抜群のカーブを投げていたのか。それを自分の体にしみ込ませてみたかった。

監督になって食事も豪華なものに


国鉄、巨人で投げて通算400勝をマークした


 金田さんが最初に監督となったロッテでコーチを務めていた八木沢荘六さんが西武に移ってきたときもいろいろと話を聞いた。キャンプなどで朝、2キロくらい散歩をするそうなんだが、それもゆっくり歩くのではなく早歩き。競歩さながらのスピードなものだから、みんな汗だくになり、宿舎に帰ってきたら着替えなければならないほど。さらに、練習前のアップも90分走りっぱなし。とにかく走って、走って、走りまくるキャンプだったそうだ。

 それと金田さんが監督になって、一番変わったのは食事。それまではスポーツマンらしからぬ質素なメニューだったそうだが、金田さんがゴロッと変えた。和洋折衷で何でもあり。キャンプでハードな練習をするのに、おいしいものをしっかり食べないといけないという考えで食事改革を行った。食事会場でもすぐに出て行こうとする選手には「まだ座っとけ! もっと食べないか!」と一喝。現役時代から自分で市場に行って食材を買って、いわゆる“金田鍋”をつくっていた。食事にお金をかけない選手は短命になるという持論を貫いてきたのだ。

 私が金田さんを直に目にしたのはロッテ監督になってからだ。71年に西鉄に入団した私だが3年目の73年に金田さんが指揮官になった(西鉄はこの年から太平洋クラブに)。金田さんはコーチスボックスに立つこともあったが、お客さんは拍手をしながら「カネヤーン」と声援を飛ばす。それに応えて手を振る金田さんは、土俵入りの力士さながら四股を踏む。それに対して、また声援が上がる。「お客様は神様」の精神が根底にあり、とにかくファンを喜ばせることを考えていた人だった。

ロッテベンチに抗議をしても……


 400勝もしているのに、偉ぶることはまったくない。金田さんは90年、91年と2度目のロッテ監督を務めていたが、そのときマイク・ディアズという外国人打者がいた。ハリウッドスターのシルベスター・スタローンに似た風貌で「ランボー」の愛称で親しまれた右のパワーヒッターだったが、性格も荒っぽく、いつも挑戦的。西武ベンチを常にヤジっていたが、あるとき四球でファーストへ歩いてきたディアズが西武ベンチに向かって「イハラ、バカ、バカ」と挑発してきた。いくらなんでもバカはないだろうと、チェンジになって三塁コーチスボックスに向かうとき、思わずロッテベンチに「ディアズを出せ!」と食ってかかってしまった。すると、金田さんが「どうした、どうした」とやってきた。わけを話すと金田さんは「こりゃ悪かった。申し訳ない。ディアズにはよく言っておく」と。てっきり「伊原、何だこのやろう」と“反撃”されるかと思っていたが、うまく矛を収めてくれた。

 本当に心根が優しい人だ。西武コーチ時代、ハワイへ優勝旅行に行った際、名球会の方々も同地を訪れていた。ホノルルで家族で食事に出かけたら、その店でちょうど金田さん、王さんらが3、4人で卓を囲んでいた。金田さんらは帰りがけ、まだ食事中の私たちの下にやってきて、まだ小さかった子どもに満面の笑みを浮かべながら「小遣いだ」と言って、100ドル札を渡してくれたこともある。

 そういえば金田さんはロッテ監督時代、福岡遠征に行くとゲーム後に必ず行く中州の屋台があったという。そこにはコーチ、そして担当記者も集合。食事をしながらコーチとはミーティングを行い、担当記者とも今日の試合について語り合う。だから、担当記者にも“敵”がまったくいなかったそうだ。

 私が2007年から10年まで巨人でヘッドコーチを務めていたときも、よくお孫さんを連れて東京ドームにやってきていた。いつもニコニコしていて楽しそうだった。最後に金田さんにお会いしたのは、確か私が巨人を離れた後、ロッテ浦和で二軍の試合を見ていたときだった。ここでもお孫さんと一緒だった。「おお、伊原」と声をかけられて、「孫がロッテの工場に行きたいというから、いま見てきたんだ」と言っていた。アイスをほおばるお孫さんを見て、また目じりを下げている金田さんの姿が印象的だった。本当に、大選手なのに偉ぶるところのない、気さくな方で人間的に魅力だった。合掌――。

写真=BBM
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