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「オーケストラ」 個性が奏でるこの夢心地の瞬間 朝日新聞書評から

評者: 西崎文子 / 朝⽇新聞掲載:2020年03月21日
オーケストラ 知りたかったことのすべて 著者:クリスチャン・メルラン 出版社:みすず書房 ジャンル:芸術・アート

ISBN: 9784622088776
発売⽇: 2020/02/19
サイズ: 20cm/541,55p

オーケストラ 知りたかったことのすべて [著]クリスチャン・メルラン

 文字通り、オーケストラを丸ごと書いた本だ。組織と序列、楽団員の採用と生活ぶり、生涯の道筋、各パートの特性や楽団員と指揮者との関係などが、事例豊かに描かれる。社会階層と楽器との関係や、女性受け入れまでの長い道のりなど、目配りも細やかだ。
 集団で演奏する弦楽器奏者と、ソロ・パートの多い管・打楽器奏者との対比も面白いが、楽器紹介の中で興味深いのは、フランス派とドイツ派との対立だ。コントラバスの弓のスタイルや、フランス派バソンとドイツ派ファゴットとの勢力争いでは、いずれもドイツ派が優勢らしい。行間にフランスで活躍する著者の無念が滲む。
 19世紀から現在までの名演奏家や指揮者たちの生き生きとした描写も魅力的だ。その眼力で、打楽器奏者に人生最高の連打をさせるフルトヴェングラーや、20世紀最高のオーボエ奏者と言われながらプレッシャーのためかアルコールにのめり込んでしまったローター・コッホなど、博覧強記ぶりが遺憾無く発揮される。トロンボーン奏者ファン・ライエンなど、今日のスターへの言及も怠らない。
 抱腹絶倒の挿話も満載である。本番中、ティンパニのパート譜が一枚、自分の楽譜に紛れ込んでいるのに気づいたヴァイオリン奏者が、それを紙飛行機にして飛ばし、ティンパニ奏者を救う代わりに指揮者を仰天させてしまったり、フランス国立管弦楽団の日本公演中に、演奏箇所が分からなくなった指揮者がヴィオラ奏者に小声で「今はどのあたりかな」と問いかけると、「ここは日本ですよ、先生」という答えが返ってきたり、などなど。生演奏の緊張と隣り合わせだからこそであろう、この手の笑い話はこたえられない。
 ともに演奏するということは、ともに生きることを学ぶことでもある、とはムーティによる序文の言葉である。確かに、個性を重んじる音楽家たちが集団で演奏するということは、永遠の逆説かもしれない。しかし、オーケストラは軍隊というより機能性の高い蜂の巣や、社会性のある蟻の巣に近いという表現からは、この逆説的存在に対する著者の愛情と薀蓄の深さとが伝わってくる。
 欧米中心の叙述であり、日本とは事情が異なる面も多々あろう。とはいえ、一読の後はコンサートの舞台に新たな発見があることは必至である。さらにはネット上で、往年の名演奏家たちの録音を探したくもなる。名指揮者の錬金術によりメンバーが一体となり、「指揮者とオーケストラがともに飛び立つ」夢心地の瞬間を、聴衆として共有する楽しみは何ものにもかえがたい。ウイルス対策によりコンサートが自粛される中、励ましとなってほしい一冊である。
    ◇
Christian Merlin 1964年生まれ。仏リール第3大学音楽学助教授。2000年から仏「フィガロ」紙の音楽批評家。本書はラジオの音楽番組で語った論評をもとにしている。ドイツ語の教授資格者、文学博士。