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高樹のぶ子「小説伊勢物語 業平」 豊かに湧き出る日本語の美

 いいなあ、楽しいなあと思いながら、豊饒(ほうじょう)な言葉の世界に耽溺(たんでき)した。

 業平(なりひら)――と聞いて、稀代(きたい)のモテ男をイメージする人は、現在ではずいぶん減っただろう。一方で作品舞台は平安時代と聞いて尻込みする人は、おそらく多いと思われる。

 だがそんな方にこそ、ぜひこの一冊を手に取ってもらいたい。主人公・在原業平の出自や平安期のややこしい儀式などを知らずとも、滾々(こんこん)と湧き出る泉に似た日本語の美に、誰もが絡め取られるに違いない。

 ――春真盛りの、大地より萌(も)え出(い)ずる草々が、天より降りかかる光りをあびて、若緑色に輝く春日野の丘は、悠揚としていかにも広くなだらか。

 映画のワンシーンもかくやと思わせるこの書き出しには、体言止めが効果的に使われている。この文体は業平の生涯を和歌物語『伊勢物語』を通じて描く中で、筆者が選び取ったもの。日本語の美しさを生かす「ですます調」と体言止めが併用され、それ自身が一つの歌の如(ごと)きリズムを生む。

 もともと平安時代は現代に比べ、五感に訴えるものが多い時代だ。人工の灯(あかり)のない夜の闇と、微(かす)かに瞬く星影。クラクションもテレビの音もない静寂を破る虫の声、木々を揺らす風の音。そんな世界で人の思いを紡いできた和歌の力が、作中で瑞々(みずみず)しく蘇(よみがえ)る。

 『伊勢物語』の現代語訳はこれまで多く出版されてきたが、時間が時折飛び、匿名の登場人物も多いこともあって、正直、分かりやすい書物とはいいがたい。しかし筆者はその主人公とされる業平の生涯を小説に描くことで、作中に埋没していた人物たちに息吹を吹き込むとともに、平安前期という少々馴染(なじ)みのない時代を活写した。

 聞いた話によれば、筆者は今後もこの時代を舞台とした作品を描かれるという。この豊饒なる泉にまた触れることができるかと考えると、今からわくわくする。=朝日新聞2020年9月19日掲載

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 日経BP・2420円=5刷4万部。5月刊。国語の教科書にも載る古典を現代小説化。コロナ禍で書店が閉まった最中の刊行ながら、ネット書店でよく売れたという。