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危機を乗り越え、松任谷正隆&ユーミン夫婦が「戦友」になれた理由

11月29日はユーミン夫婦の結婚記念日です

2018/11/29
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 先ごろ、ミュージシャンの松任谷由実が第66回菊池寛賞を受賞することが決まった。ユーミンの愛称で親しまれる彼女は、1972年、多摩美術大学在学中に荒井由実(旧姓)としてデビューして以来、いまなお人々に愛される名曲を多数生み出してきた。

ふたりの馴れ初めはアルバム『ひこうき雲』

結婚42周年を迎えた松任谷正隆・由実夫妻 ©時事通信社

 きょう11月29日は、そのユーミンと、同じくミュージシャンで彼女の作品のプロデューサーも務める松任谷正隆の結婚記念日である。1976年のこの日、2人は横浜山手教会で式を挙げた。当時、新郎は25歳、新婦は22歳。新婚旅行の行き先は、由実の親戚が経営する熱海の旅館だった。このとき、吉田拓郎やかまやつひろし(ムッシュかまやつ)らミュージシャン仲間が「初夜を妨害しよう」とついてきて、朝まで遊んで騒いだという(※1)。

 正隆は慶應義塾大学に在学中の1971年、加藤和彦に誘われてミュージシャンデビューを果たす。その後、細野晴臣らとキャラメル・ママ(のちにティン・パン・アレーに発展)を結成すると、キーボードを担当し、さまざまなアーティストのレコーディングやコンサートで演奏を務めた。由実との出会いは、彼女の最初のアルバム『ひこうき雲』(1973年)のレコーディングに、キャラメル・ママの一員として参加したときだった。

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牛乳瓶に挿した「一輪のダリア」

 キーボードというパートはレコーディングに参加する時間が一番多い上、由実は相手に意見を求めるタイプだった。正隆によれば《僕の意見に積極的に耳を貸してくれるので、会話が多くなり、僕の役割も拡大していった。音楽的な方向性も一致》したという(※2)。

 『ひこうき雲』のレコーディングには1年ほどかかった。ディレクターの有賀恒夫が由実の歌になかなかOKを出さなかったからだ。とくに最後に録った「雨の街を」は難航した。有賀はピッチの正確さを重視して、彼女にビブラートを取るよう指示したが、正隆はそれでは歌が無機的になり、作品にも深みがなくなると反対する。しかし一介のセッション・ミュージシャンにすぎない彼の意見は聞き入れられなかった。

1973年11月にリリースされた荒井由実のファーストアルバム『ひこうき雲』

 レコーディングの最中、2人で井の頭公園を散歩しているとき、正隆が由実に好きな花を訊いた。彼女の答えはダリア。そこで後日、彼はスタジオのピアノの上に牛乳瓶に一輪のダリアを挿して置いたところ、「雨の街を」の歌入れがうまくいった……とは交際中の2人の甘いエピソードとして、ファンのあいだでは語り草となっている。しかし後年、正隆が明かしたところによれば、ダリアはディレクターに対し、ピッチも大切だけれど、ここはエモーションを優先するべきだという彼なりの意思表示だったという(※2)。

 正隆にとってこの時期は、仕事で自分の意見が反映されず耐えかねていた“暗黒時代”だった(※2)。それが由実から意見を求められるうち、しだいに自分の存在意義を見出し、彼女に救われたと思うようになる(※3)。やがて2人は交際を始めた。由実の2ndアルバム『MISSLIM』(1974年)からは正隆が本格的に楽曲のアレンジを手がけた。