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コロナ禍奪われた「遺す」機会 戦中と重なる「自粛警察」

2020年7月1日 05時00分 (7月3日 12時37分更新)
小学生を前に、疎開の体験を語る木下信三さん=1月、名古屋市名東区の戦争と平和の資料館「ピースあいち」で(同館提供)

小学生を前に、疎開の体験を語る木下信三さん=1月、名古屋市名東区の戦争と平和の資料館「ピースあいち」で(同館提供)

  • 小学生を前に、疎開の体験を語る木下信三さん=1月、名古屋市名東区の戦争と平和の資料館「ピースあいち」で(同館提供)
  • 会報を手に学童疎開の経験を話す木下さん=愛知県尾張旭市で
 新型コロナウイルスの影響で、開催規模の縮小を余儀なくされた今年の戦没者追悼式。追悼式にとどまらず、「語り部」が自らの戦争体験を伝える場も奪われている。語りたくても、語れない。そんなもどかしさを抱えながら、間もなく戦後七十五年を迎える。 (鈴木凜平)
 愛知県尾張旭市新居町の木下信三さん(85)は一九四五年三月、国民学校五年生の時に岐阜県福岡村(現中津川市)に学童疎開した。虫が「ごちそう」で、上級生のいじめっ子に逆らえば「ハチベ(仲間外れ)」にされた。戦争が終わり、住み慣れた家に戻るまでの七カ月の飢えと孤独。一緒に疎開した二つ下の妹は体が弱く、戦後、中学を卒業して間もなく亡くなった。
 塾を経営していた三十四歳の時、木下さんは名古屋の書店の古書展で疎開先の地域史を見つけた。懐かしさと同時に「終生忘れられない」戦争の記憶がよみがえり、疎開について調べ始めた。その後知り合った愛知、岐阜の疎開体験者らと有志の組織をつくり、自分たちの経験を会報にまとめるようになった。
 二〇〇七年、戦争と平和の資料館「ピースあいち」(名古屋市名東区)が開設され、〇九年に「語り手の会」ができた。三歳の初孫がいた木下さんは「子どもに平和のありがたみを伝えたい」との思いが一層強まり、会の一員として毎年三回程度、県内外から訪れる小中学生に語ってきた。
 隔月発行の会報づくりはライフワーク。コロナ禍にあっても「やることは変わらない」と、地元にあった国民学校の疎開記録を読み解いた。だが、今年は二月に話したのを最後に語る場を失った。「仕方ないが、寂しくもある」と話す。
 営業中の店に休業を迫る「自粛警察」や、マスクを着けていない人に着用を強要する「マスク警察」の存在をニュースで知り、えたいの知れない緊張感に包まれたコロナ禍の空気が「あのころ」と似ている、と感じた。
 戦時中、「外で布団を干しているのは敵に暗号を送っている証拠」との根拠のない話をあちこちで聞いた。母親や近所の人は、布団を目立たないように干していた。国全体が戦争に傾いていた時代。「精神的に圧迫されていた」。木下さんはそう振り返る。
 会報は今年六月、百四十四号を数えた。最近、製本して図書館に寄贈しようと思うようになった。戦地に赴いたわけでなくても「戦争を語れる最後の世代」との自負はある。それでも、語り部が高齢になり、亡くなる人も増える中で「自分も何があってもおかしくない」という危機感がある。
 終戦の日は例年、テレビ中継で全国戦没者追悼式を見て黙とうし、亡き妹や友人に思いをはせる。感染拡大を防ぐための規模の縮小は「理解できる」が、戦争の悲惨さや平和の尊さを次の世代へ語り継ぐ機会は減っていく。だからこそ「今年の夏はいつもの年以上に直接伝えることが大事だった」と残念がる。
 語り部としての活動再開は早くて十月になりそうだが、意欲は衰えていない。木下さんは言う。「コロナを経験した子どもたちに、何を話すのか。いま一度、七十五年前のあの時代と静かに向き合いたい」

 学童疎開 太平洋戦争中、国は戦禍を避けるために大都市の児童を郊外に移した。親戚を頼る「縁故疎開」もあったが、1944年に空襲が本格化したことで学校単位の「集団疎開」が急速に進み、東京、大阪などの数十万人が対象となった。このうち、名古屋市内の児童は愛知、岐阜、三重県に疎開した。


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