わずか20年ほど前まで、法律によって子どもを産むことを許されなかった人たちがいる。

「不良な子孫の出生を防止する」と謳った旧優生保護法により、遺伝性とされた病気を持つ人や知的障害のある人は、不妊手術を強いられていた。

戦後最大級の人権侵害といわれる旧優生保護法下での不妊手術。

1996年に優生保護法が母体保護法に改正されるまで、その手術を受けたのは全国で2万4991人といわれている。


後編では、2018年以降、被害者が声を上げ始めてから被害者救済法成立までの歩みを追う。

不妊手術によって人生を奪われた人たちの「痛み」は、なぜ放置され続けてきたのだろうか。被害者の体験談を交えつつ、探ってみたい。
 

【前編】16歳で不妊手術を強いられた。旧優性保護法が2万4991人の生殖機能を奪った理屈

 

国から、親から、不妊手術を強いられた被害者たち

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13歳の時にハンセン病と診断された平沢保治さん。東京都東村山市にある国立療養所多磨全生園に長く暮らしてきた92歳だ。

かつてハンセン病は遺伝病と誤解されており、当時は不妊手術の対象とされていた。

長年、療養所に隔離されてきたハンセン病の元患者たち。結婚の条件として、不妊手術を強いられた。その数は少なくとも1050人にのぼる。

平沢さんはそのうちの一人だ。

「社会復帰を諦めて、同じ所内で暮らしていた妻と結婚しました。まさかそこに優生保護法が待ち受けているとは思わなかった。ハンセン病が治るようになったのに、次世代を担う命を法律で絶ってしまった。いままで受けたなかで一番の屈辱だよ」

平沢さんは今まで、さまざまな差別を受けてきた。

「それを全部許したとしても、不妊手術の屈辱だけは一生許すことはできない。今でもそう思っている」

兵庫県神戸市に住む87歳の小林宝二さんは、生まれつき耳が聞こえない。同じく難聴の妻・喜美子さんが妊娠したとき、障害が遺伝するからと、家族が出産を認めなかった。

二人の元へやってきた母親は、「子どもを作ったらダメだ」と言ったという。しかし、小林さん夫妻は結婚前から、子どもを望んでいた。

「子どもを作るかどうかはお母さんではなく僕たちが決めることだ、と言いました。けれども、母親は子どもを産むことは許さないと言って、勝手に妻の子どもをおろしたんです。そして子どもができない体にしてしまった」

行き場のない怒りがこみ上げ、小林さんは何度も母になぜそんなことをしたのかと問いただした。妻にはただ謝罪をするしかなかった。

「妻もとても悲しそうで、僕も本当に悔しくて悲しくてたまりませんでした」

2018年1月、初めての国家賠償請求

優生保護法の改正から20年以上たった、2018年1月。

宮城県内に住む60代の女性が、全国で初めて裁判を起こした。旧優生保護法の違憲性を問い、国家賠償請求をしたのだ。原告には手術の記録が残っていた。

16歳のときに不妊手術を強制された飯塚淳子さん(仮名)は、長い間、被害者が裁判に踏み切れなかった。飯塚さんには、証拠となる公的な手術記録がなかったためだ。その間、被害は放置されてきた。

飯塚さんの両親は、手術のことをどう思っていたのだろうか。飯塚さんが真相を知ったのは、21年前。父が亡くなる直前、震える手で書いた手紙をくれた。そこには、父の隠し続けてきた心情が綴られていた。

“やむなく印鑑を押させられたのです。優生保護法に従ってやられたのです”

2018年2月、手術の記録が残っていない人も裁判が可能に

旧優生保護法下での不妊手術については、直接的な証拠がなくても、手術を裏付ける別の論拠があれば、手術の事実を県として認める。2018年2月、記者会見の場で宮城県の村井嘉浩知事はこう公言した。

「(手術を)受けた、受けていないを裁判で争われることはありえないということです。ですから、ぜひご安心いただきたいと」

手術の記録が残っていない人にも、裁判への道が開かれたのだ。これを受け、飯塚さんと北三郎さん(仮名)が訴訟に加わった。また、北海道や兵庫、熊本でも同じように被害者が声を上げ始めた。

国会も、ようやく実態調査と救済法案の策定に取り掛かりはじめた。「全国優生保護法被害弁護団」共同代表の新里宏二弁護士は、2018年末に行われた「優生保護法被害者の声を伝える院内集会」の内容をこう説明した。

「13人が提訴していること、争点があまりなくて仙台の地裁の裁判は非常に早く進行していること、国の違法性を認めて謝罪が法文の中にあるべきだと考えていることを述べさせていただきました」

2019年3月、20年以上前から被害の実態を訴え続けてきた飯塚さんは、東京で開催された「旧優生保護法下における強制不妊手術に関するJDFフォーラム」に参加していた。

それまでは、国会議員に相談する機会があっても、耳を傾けてくれるのは決まって野党の議員だった。しかし、この日は与党の議員を交えた被害者との意見交換会だと聞いたからだ。

「私は宮城県から来ました飯塚淳子です。16歳の時に何も説明されないまま、優生手術を受けさせられました。優生手術は私から幸せを…」

用意してきた原稿をそこまで読んで、涙に詰まる飯塚さん。読むべき場所を見失う。駆け寄ったスタッフの女性にサポートされ、震える声でふたたび話し出す。

「幸せな結婚、子どもというささやかな夢もすべて奪いました。優生手術によって人生が狂わされてしまったのです。一刻も早い解決ができるよう、皆様のお力添えをよろしくお願いいたします」
 

2019年4月、被害者救済法成立。しかし…

救済法案を検討している超党派議員連盟では、元厚生労働大臣の尾辻秀久参議院議員が中心となり、与党と野党の議員たちが会議を重ねていた。課題は、被害者へのお詫びをどう表現するか、どのように保障すべきか。その2点だ。

尾辻議員は、「私たちがこのことから何を学ぶのか、そして将来に向けて何を伝えておくべきなのか。そうしたことも含めて、しっかり仕事を続けていきたいと思います」と話す。

優生保護法の改正から救済の議論が始まるまでにかかったのは、23年という年月。なぜこれほどまでに時間がかかったのか。尾辻議員に聞くと、こんな答えが返ってきた。

「気が付くのが遅かったっていうのが、正直なところだよね。それまでは問題提起されなかったから、気づかなかった。訴訟によって問題提起されたから、今気づいたってことだよね」

大臣まで経験した人物が、なぜ気付けなかったのか。そう尋ねると、尾辻議員はやや怒気を含んだ口調で言った。

「私が厚生労働大臣だったときの平均睡眠時間は、4時間だよ。やめたときに、生きてやめることができたんだと本当に思ったよ。過労死する覚悟で毎日やってたからね」

さらに、続ける。

「ありとあらゆることを抱え込んでいるから、すべてに気が付くわけではない。この問題は、国民にも責任があることだよ。だってあのときのあの雰囲気を作ったのは、国民全体じゃない。あなた方マスコミも含めて。だからその責任は、みんなで果たさないといけない」

その後、被害者への反省とお詫びを明記し、一時金の支給を盛り込んだ法案が固まった。

2019年4月24日、旧優生保護法の被害者救済法が成立。ただし、国家賠償請求訴訟への影響を案じてか、旧法の違憲性や救済策を講じなかったことの違法性に触れられることはなかった。

責任の所在は明らかにされず、しかるべき糾弾もなく、被害の全容解明もなされていない。
戦後最大級の人権侵害といわれながらも、そこに当事者はいないかのようだ。

「16歳に戻れるならどれだけいいかなって思う。戻れないけど、戻してほしい。責任を果たすにはお金という形になってしまうんだろうけど、正直なところ、お金じゃない。泣き寝入りするよりいいとは思うけど……でもやっぱり、戻れるなら人生を返してほしい。いつも思います」

被害者の傷は残り続ける。救済法が成立した後も、飯塚さんの心は揺れ続けている。


(※年齢や肩書は2019年5月放送当時のものです。)


【前編】16歳で不妊手術を強いられた。旧優性保護法が2万4991人の生殖機能を奪った理屈

 

仙台放送
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