松江城(島根県)(写真協力/Ogi)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

いまも朝鮮半島に残る倭城

 日本全国を統一した秀吉は、中国大陸を征服する野望を抱いて1592年、朝鮮半島に兵を出します。文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)と呼ばれる戦いです。海を渡った日本軍は、当初は快進撃を見せましたが、反撃されて次第に押し込まれるようになり、半島の南岸に城を築いて、かろうじて持ちこたえるばかりになりました。

写真1:晋州城(チンジュソン)。町全体を城壁で囲む邑城(ゆうじょう)と呼ばれるタイプの城で、中国大陸や朝鮮半島に多い。半島の南端近くにある城だが、守備隊と住民が頑強に抵抗したため、日本軍はなかなか落とすことができなかった。(写真協力/Ogi)

 このとき日本軍が築いた城は「倭城(わじょう)」と呼ばれて、いまも立派な石垣を残しています。無謀な侵略戦争は朝鮮半島に深い傷を残し、日本軍も多くの戦死者を出しましたが、厳しい実戦経験をへて、織豊系城郭はさらにブラッシュアップされることとなりました。 

写真2:西生浦(ソセンポ)城に残る石垣。朝鮮・明軍との講和により、漢城(ハンソン・現ソウル)から撤退してきた加藤清正が築いた城。のちに日本側は講和を破棄して再戦となるが(慶長の役)、なかなか戦線を押し上げることはできなかった。(写真協力/Ogi)
写真3:蔚山(ウルサン)城。慶長の役で、2度にわたって朝鮮・明軍の激しい攻囲を受けたが、加藤清正らの奮戦により撃退した。高石垣と鉄砲の防禦射撃が強力だった様子は、朝鮮側の記録にも書き残されている。(写真協力/Ogi)

 ところが、1598年に秀吉が没すると、豊臣政権はたちまち崩壊してしまいます。政権の幹部だった、徳川家康と石田三成の主導権争いがはじまり、ついに多くの武将が徳川方(東軍)、石田方(西軍)に分かれて、1600年に関ヶ原合戦で激突したのです。

 合戦の結果、敗れた西軍方の武将たちは、あるいは命を落とし、あるいは領地を没収されました。没収された領地は、家康によって東軍方の武将たちに分け与えられます。こうして大きな権力を手にした家康は、ほどなく朝廷から征夷大将軍に任じられます。

写真4:石田三成の居城だった佐和山城(滋賀県彦根市)。関ヶ原合戦で敗走した三成は、潜伏中を捕らえられて処刑され、佐和山城も徹底的に破壊されて、廃墟となった。(撮影/西股 総生)

 とはいえ、秀吉の跡継ぎである秀頼が、まだ大坂城に残っていました。全国の大名たちは、次に起きるであろう徳川vs.豊臣の最終決戦に備えなくてはなりません。