戦火の罪業、一兵卒の告解 故・絵鳩さん回想録を市民団体が編集

 第2次世界大戦で中国に出征し、終戦後も11年にわたりシベリアと中国の収容所で暮らした旧陸軍兵士の回想録がこの夏、完成した。戦時中に自身が中国で犯した罪と真の反省にたどり着くまでを記録。加害の史実を兵士自らが明かしその責任に苦悩する姿からは、戦争や軍隊、人間の本質が垣間見え、編集に携わった市民団体も意義を強調する。

 回想録を執筆したのは藤沢市の絵鳩(えばと)毅さん=2015年1月死去、享年101歳。生前に書き留め、簡易出版された3冊の自叙伝を、絵鳩さんと共に平和活動に取り組んできた市民団体「撫順の奇蹟を受け継ぐ会神奈川支部」が1冊に編集した。

 1941年に陸軍の召集を受けた絵鳩さんは翌年に中国山東省へ出征。終戦後の5年間シベリアに抑留され、さらに中国遼寧省の撫順戦犯管理所に6年間戦犯として収容された。

 回想録は入隊前後の様子から始まり、新兵に対する古参兵の過酷な私的制裁の実態などを描写。中国に渡ってからの日本兵による残虐行為も生々しくつづられている。

 初年兵の教育係だった絵鳩さんはある日、捕らえた中国人を生きたまま突き刺す「実的刺突」を訓練として初年兵にやらせるよう上官から命令を受けた。泣いて命乞いする15歳ほどの少年にためらいがなかったわけではないが、「戦争に非情はつきもの」として自分を納得させたと絵鳩さんは振り返っている。

 また、ある時は地雷の被害を避けるため、荷物の運搬係として帯同させた中国人を横一列に並ばせて歩かせ、「人間探知機」にしたこともあったという。

 戦犯管理所では、こうした自身の戦争犯罪と徹底的に向き合ったことを詳述。本来は憎まれて当然のはずの中国人から管理所で人道的待遇を受け、当初は「非情はつきもの」「上官の命令だったから」と考えていた兵士の多くが、改悛(かいしゅん)と謝罪の情を深めていく過程が紹介されている。

 送料込み1900円。購入希望者は、同支部の松山英司支部長に電話かファクス=046(871)4263、兼用=で申し込む。平和学習に半生ささげ集大成 絵鳩さんの回想録は、戦時下の中国で日本軍が一体何をしてきたのかを赤裸々につづった一冊だ。「日本人は加害の歴史ともっと向き合うべき」とは、撫順の奇蹟を受け継ぐ会神奈川支部長の松山英司さん(74)。そうした思いが編集の原動力になったと語る。

 絵鳩さんと平和学習に努めてきた松山さんは、子どもたちの何気ない発言が気になってきたという。「戦争の話はおばあちゃんに聞いた」という話はよく耳にするが、そこに「おじいちゃん」が登場することは極端に少なかった。

 銃後の女性が語る体験は必然的に原爆や空襲など被害の歴史が大半を占める。本来はあるべき加害の実情がすっぽりと抜け落ちているのはなぜか。「孫に語れるような体験ではなかったのだろう」。松山さんはそう推測している。

 「戦闘は携わった人間が人間じゃなくなる。その事実から目を背けていると、戦争の本質や悲惨さを見誤るのではないか」 絵鳩さんは違った。自身の罪を包み隠さず話し、回想時にはいつも苦しみもだえていた。

 「顔を真っ赤にして、苦悶(くもん)の表情を浮かべてね。詰まりながらも言葉を絞り出していた」。過去を語ることがこれほどまでに痛みを伴う作業であることが、いや応なく伝わってきた。

 そんな告白を絵鳩さんが自らに課し続けた原点は、撫順戦犯管理所にあった。「加害の側が長い時間を掛けて罪と向き合い、真に反省を深めた結果だろう。撫順を知る意義はそこにある」と松山さん。

 同支部が把握している限り、撫順帰りの県内在住者は絵鳩さんが最後の1人だった。戦後72年、元兵士の独白はもう本を通してしか接することができない。

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