なだしお事故30年 亡き息子の面影追う83歳父

 横須賀港沖合の東京湾で、海上自衛隊の潜水艦「なだしお」と遊漁船「第1富士丸」が衝突してから23日で30年になる。次男・功さん=当時(28)=を亡くした内山末治郎さん(83)=埼玉県草加市=は今年も、23日を前に、浦賀水道を望む観音崎に立ち、静かに手を合わせた。年を重ね、慰霊祭に参加する遺族も少なくなった。末治郎さんは切に願う。「ほんの少し、心に留めるだけでいい。この場所で事故があったことを忘れないでほしい」

■届かなかった吉報

 あの日。保険代理店を営む末治郎さんの心は弾んでいた。

 3カ月前に入社した功さんと一緒に何度も足を運んだ顧客が、ようやく契約してくれた。「新人賞をあげたいな」。友人に誘われ、伊豆大島まで釣りに出掛けた功さんの喜ぶ顔が真っ先に浮かんだ。

 だが、吉報を届けることはかなわなかった。その日の夕方。営業に出向いた個人宅のテレビに、緊急ニュースが流れた。画面には、衝突事故を知らせるテロップ。「ウチヤマイサオさん」。アナウンサーは遭難者の氏名を読み上げた。信じられなかった。

■遺体見つかり安堵

 翌早朝。功さんの友人の運転する車で、海自横須賀地方総監部に向かった。「間違いであってほしい」。2時間半の車中、ただそう願った。

 総監部には、遭難者の家族が100人近く集まっていた。次々に運び込まれる遺体。現実と悟った。「スクリューに巻き込まれ、バラバラになったんじゃないか」。じりじりと流れる時間の中、悪い想像ばかり、頭をよぎった。

 「兄貴と同じになるのでは」。末治郎さんの長兄は太平洋戦争に出兵。乗船した軍艦が米ハワイ沖で撃沈され、帰らぬ人となった。遺体がないまま、葬式を挙げた。

 同じ海での惨劇。功さんの遺体が見つかったと告げられた。対面すると、頬にかすり傷があった。「遺体があって、良かった」。末治郎さんの胸に広がったのは、悲しみよりも安堵(あんど)だった。

■罪憎んで人憎まず

 功さんを失って30年。この間も、海上での事故がなくなることはなかった。

 2001年にハワイ沖で、水産高校の実習船が米原子力潜水艦に衝突されて沈没し、生徒ら9人が死亡。08年には千葉県沖で、海上自衛隊イージス艦「あたご」と漁船がぶつかり、漁船の親子2人が亡くなった。

 末治郎さんは水産高校前に建立された慰霊碑で線香を上げ、あたごの事故を報じる新聞や週刊誌を見つけては隅から隅まで読んだ。「事故と聞くと、被害者に親や兄弟はいるのかとか、いろいろ考えてしまう。経験している分、余計に心が痛むね」。

 なだしおの艦長や第1富士丸の船長を恨む気持ちはもうない。「罪を憎んで人を憎まず、だから」。ただ、と続ける。「どの事故も、もっと注意力があれば防げたんじゃないか。交通事故と同じように、ルールを守れば、事故は起きないはずだ」

 今年も、命日には墓参りする予定だ。墓前にはいつも、次男が好きだった酒を供えている。末治郎さんがつぶやいた。「街中で後ろ姿が功と似ている人を見掛けると、振り返ってしまう。違う人だって分かっているのに。何でだろうね」

 ◆なだしお事故 1988年7月23日午後3時40分ごろ、横須賀港沖合の東京湾で、海上自衛隊第二潜水隊群所属の潜水艦「なだしお」と、遊漁船「第1富士丸」が衝突。第1富士丸は沈没し、乗員・乗客30人が死亡、17人が負傷した。海難審判では、一審で「なだしお主因」、二審で「過失同等」とされた。刑事責任を追及した92年の横浜地裁判決では、なだしおの主因を認定。業務上過失致死傷などの罪に問われた元艦長、元船長に執行猶予付き判決が下され、確定した。

「今も『観音崎』という単語が頭から離れない」。次男・功さんを亡くした、なだしお事故について語る内山末治郎さん =埼玉県草加市

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