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「まだまだ楽しいことが待っていたやろうに」。喜之さんを亡くし、再建した自宅を見上げる市野裕士さん=芦屋市津知町(撮影・風斗雅博)
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「まだまだ楽しいことが待っていたやろうに」。喜之さんを亡くし、再建した自宅を見上げる市野裕士さん=芦屋市津知町(撮影・風斗雅博)
市野喜之さんの遺影に使われた写真
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市野喜之さんの遺影に使われた写真

 9割以上の建物が全半壊し、56人が犠牲となった兵庫県芦屋市津知町。市野裕士(ひろし)さん(71)と妻の祐子さん(66)は、当時と同じ場所に家を構える。全壊した自宅で、3兄弟の次男喜之(よしゆき)さん=享年(16)=を亡くした。

 5合炊きの炊飯器じゃ足りなくなってきたね。そろそろもう一つ買おうか-。夫婦でそんな話をしていた頃でした。

 揺れが収まると、夫婦は2階の窓から外へ出た。喜之さんと三男、祖母が寝ていた1階はつぶれていた。祐子さんは静まりかえった街を靴下で走り回った。

 ゴジラが通った後のような光景。「母と息子が埋まってる。助けて」。知らない人にも呼び掛けました。

 駆け付けた数人と、ジャッキやのこぎりを使って2階の床を切った。こじ開けた穴から裕士さんが腹ばいになって入り、喜之さんの胸と両足を見つけた。角材で頭が挟まれていた。

 足を触るとまだ温かかった。声をかけても返事がない。角材があと10センチずれていたら。今も思う。

 高校1年だった喜之さん。口数は少なかったが、家の手伝いをよくしてくれた。遺影となった写真は震災直前の正月、家族で近くの城山へ出掛けた時の一枚。祐子さんに頼まれて、喜之さんは生真面目な表情でおにぎりとおかずが入った袋を抱えている。

 中身が崩れないように、ちゃんと水平に持ってくれて。そういう子でした。兄と弟に挟まれて、いろいろ我慢してたんかな。

 震災直後、近くの小学校に避難した。裕士さんは喜之さんの夢をよく見た。

 学校の前にたたずんで。目の前におるのに「そっちに行けない」って言う。心の準備もできんまま亡くなった。魂が迷ってしまうのはかわいそうや。

 夫婦は同じ場所での自宅再建を決心する。制服、通学かばん、貯金箱。何度も壊れた自宅に入り、遺品を取り出した。津知町は区画整理があったが、約1年半で家を建て直した。

 数年前、裕士さんが営む鉄工所を喜之さんの同級生が訪ねてきた。結婚し、子どもが生まれ、家を建てたという。生きていたら40歳ぐらい。同じように人生を積み重ねたはずの息子。こみ上げた感情は怒りだった。

 仕事の悩みとか聞いてあげたかった。自分は家族も守れんかった。壊れん家を建ててやればよかった。

 いつからか、裕士さんは自分の体験を話すことを避けるようになった。各地で相次ぐ災害も影響している。

 東日本大震災の津波で写真一枚、残らんかった人もいる。いつまでも自分が被災者の顔をするのは申し訳ないと思って。

 せめて残った家族は守ろう。そう思って25年やってきた。でも今は、自分が周りの人たちに支えてもらっているんよね。(名倉あかり)

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