日米中の関係はなぜ複雑になったのか?アパレルの視点で読み解く

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日本とアメリカは同盟国ですが、経済分野においては貿易摩擦の問題があり、それぞれが中国との関係を強化する一因になっていました。中国はそんな日米両国を利用し、経済発展を果たしましたが、日米それぞれが中国に近づくきっかけにもなった日米繊維交渉以来の流れをファッションビジネスコンサルタントの坂口昌章さんが、自身のメルマガ『j-fashion journal』で振り返ります。そしていま、中国による香港国家安全維持法の制定施行や海洋進出の動きにより、変化の見える3ヶ国の関係を紐解きます。

日・米・中の複雑な関係

1.日本企業は中国と付き合うべからず

米中貿易戦争が始まり、コロナ禍とマスク問題があり、中国の人権問題が明るみに出て、香港国家安全維持法による民主化デモ弾圧が起きた。米国は中国への経済制裁や金融制裁を強めている。一方、台湾はコロナウイルス防疫でも見事な対応を見せ、日本に対する支援も行った。中国で提唱する一国二制度を拒否し、独立の姿勢を示し、米国も台湾をバックアップしている。

日本にとって米国は同盟国、中国は反日教育を行い、尖閣諸島の海域で挑発行動を繰り返す反日国、台湾は親日国というレッテルが貼られた。こうなると、なぜ、日本企業は中国と離れないのだ。中国に依存することは悪だという論調が目立つようになった。しかし、実際にはもっと複雑な状況である。親日・反日二元論の前に歴史を振り返ってみたい。

2.日米繊維交渉と日中国交正常化

1971年、日米繊維交渉が決裂し、日本政府は米国政府の圧力に屈した形で繊維製品の対米輸出の自主規制を受け入れた。この背景には沖縄返還問題があった。ニクソン政権は、沖縄返還の代わりに繊維規制に同意するように求めたのである。この時、交渉の最前線で通産大臣として奮闘したのが田中角栄氏であり、翌72年には総理大臣に就任した。

1972年9月25日に、田中角栄首相が現職総理大臣として北京を初めて訪問し、周恩来総理と首脳会談を行い、「日中共同声明」に調印した。同時に、国交のあった台湾に断交を通告した。日中国交正常化のシンボルとしてパンダが上の動物園にやってきて、日本中が日中友好ブーム、パンダブームに沸き返った。

しかし、この日中国交回復は、米国の頭越しに行われたとして、アメリカ政府は激怒した。そのせいかどうかは明らかになっていないが、1976年ロッキード事件が発覚し、田中角栄首相が逮捕され、田中角栄は失脚した。

3.米中パートナーシップによる対日政策

戦後日本の高度経済成長に伴い、日本と米国は様々な分野で貿易問題を抱えていた。日本と経済対立を強める米国政府は、一方で中国との関係を強化していった。73年キッシンジャー大統領補佐官は「イギリスを除き、中国は国際認識で我々に最も近いのではないか」と大統領に語り、74年には中国を「暗黙の同盟国」と称するまでになった。

75年には、フォード大統領がベトナム戦争後のアジア太平洋政策を発表した。この中で、米国は太平洋国家であり、この地域における米中の「対日パートナーシップがアメリカの戦略の柱である」と語った。日米は経済的に対立し、両国とも中国と友好関係を結んだ。そして、中国は巧みに日米両国をコントロールし、両国から様々な支援を引き出した。

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