京福電気鉄道嵐山線(嵐山本線・北野線)は通称「嵐電」と呼ばれ、2006年から公式の愛称となった。京都市の洛西地区の通勤・通学の足として、あるいは市街地と嵐山・北野を結ぶ観光路線として親しまれている。

  • 嵐電では路面電車スタイルの電車が使用される(写真:マイナビニュース)

    嵐電(京福電気鉄道嵐山線)では路面電車スタイルの電車が使用される。写真はレトロ電車

現在の嵐山本線(四条大宮~嵐山間)は1910(明治43)年3月25日に開業。2020年に110周年を迎える。現在の阪急電鉄のルーツである箕面有馬電気軌道、さらに京阪電気鉄道も同じ年に開業しているが、大都市間を結ぶこれらの通勤路線とは異なり、嵐山本線はあくまで地域内の生活の足として推移してきた。そのため、阪急や京阪のような大規模な改造もなく、一部に併用軌道(道路上に敷かれた線路を走る区間)が残るなど、創業当時の面影を残している。

■結節・連携が経営改善のキーポイントに

現在の北野線(帷子ノ辻~北野白梅町間)が1926年に全通して以来、ほとんど路線に変化のなかった嵐電だが、最近になって他の鉄道・バス等との接続改善をはじめ、ハード・ソフト両面からの「結節」に経営上の力点を置いている。公共交通ネットワークの一員として、京都市内の交通事情改善の一翼を担おうという姿勢が顕著になった。

関西の私鉄では、大阪駅(JR西日本)と大阪梅田駅(阪急電鉄・阪神電気鉄道)のように、隣接していながら建物も駅名も別であったり、鉄道同士が交差する地点に駅がなかったりすることも普通で、関東の私鉄と比べて各々の独立性が高い状態が長年続いてきた。ただ、やはり不便は不便で、これから鉄道の利用者数が減少に転じようかという社会状況の中、独立独歩を貫いていては始まらないという危機感も生まれている。

京福電気鉄道の場合は大幅な赤字を生んでおり、2000年、2001年と立て続けに大きな事故を起こし、全面運休となっていた福井鉄道部は2003年、第三セクター鉄道のえちぜん鉄道に譲渡された。京福の「福」の由来であった福井県での事業が大幅に縮小され、福井本社も廃止となった。比叡山地区などにおける関連事業も2000年代前半に整理を進め、嵐電を基軸とした新施策で業績の回復を図ってきた経緯がある。その効果が現れてきたのが2000年代中盤であり、それ以降の経営改善のキーポイントが結節・連携であったといえる。

■「ライバル」鉄道事業者と手を結ぶ

嵐電における結節・連携の経緯について、順を追って見てみよう。まず、2008(平成20)年3月28日に新駅、嵐電天神川駅を開業させたところまで遡ることができよう。

同じ年の1月16日、京都市営地下鉄東西線の二条~太秦天神川間が延伸開業した。この区間は嵐電の四条大宮~蚕ノ社間と300m~1km程度の距離で並行して走っており、とくに蚕ノ社駅と太秦天神川駅は約200mしか離れていない。建設中の段階から、利用者の地下鉄への逸走が懸念されていた。

  • 京都市営地下鉄東西線との乗換駅として新設された嵐電天神川駅。利用者は多い

しかし、京都市は太秦天神川駅周辺の再開発計画とも合わせ、むしろこの延伸を鉄軌道同士の結節の好機ととらえた。協議の上、設置費用の大半を負担し、京福側にも接続駅となる嵐電天神川駅を設けることにしたのである。「ライバル」同士に手を結んでもらう形ではあるが、京福側にしてみても、嵐山方面から京都市中心部ならびに東西線へ乗り入れてくる京阪京津線方面との往来が便利になるという利点があり、この計画を受け入れたのであった。

平成30年度の京都市統計書によると、嵐電天神川駅の年間乗車客数は約91万6,000人(1日平均約2,500人)に達しているという。四条大宮駅、西院駅に続き、嵐電の駅では第3位の数字だ。嵐電天神川駅が結節点として順調に機能していることを表している。