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増田明美を救ったブラジル名伯楽が
説く、日本特有の悲壮感からの脱皮。

posted2020/05/20 19:00

 
増田明美を救ったブラジル名伯楽が説く、日本特有の悲壮感からの脱皮。<Number Web> photograph by Shinichi Yamada/AFLO

ロサンゼルス五輪前に苦悩の時を過ごした増田明美。オリベイラ氏との出会いが彼女のスタンスを変えたのは間違いない。

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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Shinichi Yamada/AFLO

「細かすぎる解説」で人気の元マラソン・陸上長距離走選手、増田明美さんには生涯忘れられない言葉がある。

「アケミ、いつも苦しそうな顔をして練習している君を見ていると、こちらまでつらくなる。

 良い結果は、自分がハッピーなときにこそ生まれるんだ」

 20歳で臨んだ1984年ロサンゼルス五輪のマラソンで途中棄権という不本意な成績に終わり、22歳にして一度は引退を表明。しかし、陸上競技への思いを捨て切れず、1986年にオレゴン大学(アメリカ)へ留学。そこで指導を受けたブラジル人のルイス・アウベルト・デ・オリベイラ氏からかけられた言葉である。

失意の増田を励まそうと歓待した。

 オリベイラ氏は、ブラジルの首都ブラジリアのスポーツクラブで男子中距離のジョアキン・クルスを発掘。1983年からオレゴン大学で引き続き彼を指導し、ロサンゼルス五輪の男子800mで世界陸上競技史上に残る名ランナー、セバスチャン・コー(英国/現世界陸上競技連盟会長)との激闘を制して金メダルを取らせた名コーチだった。

 ちなみにクルスは、1988年ソウル五輪でも同じ種目で銀メダルを獲得している。

 それから2年後、オリベイラ氏は同じ五輪の陸上競技で明暗を分けた2人を一緒に指導したのである。当時のチームには、他にもアメリカの女子中・長距離走のスターだったメアリー・デッカーら錚々たるアスリートがいた。

 失意の増田さんを励まそうとしばしば自宅に招き、夫人や3人の娘と共に歓待した。増田さんは次第に本来の明るさを取り戻し、お返しに日本料理をふるまうなどして厚意に応えたという。

【次ページ】 「当時、アケミはいつも……」

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