プロ野球の名監督・野村克也氏は生前、戦国武将の明智光秀の生き様に共感していたという。ID野球の生みの親が、“謀反人”の光秀に見出した共通点とは――。

※本稿は、野村克也『野村克也、明智光秀を語る』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

ヤクルト球団設立50周年を記念して行われたOB戦。試合後、取材に応じるGOLDEN 90’sの監督を務めた野村克也氏=2019年7月11日、神宮球場
写真=時事通信フォト
ヤクルト球団設立50周年を記念して行われたOB戦。試合後、取材に応じるGOLDEN 90’sの監督を務めた野村克也氏=2019年7月11日、神宮球場

知らないうちに人生の晩年を迎えていた

平成29(2017)年12月に、妻の沙知代が亡くなった後、私は心身ともに一気に老け込んだ。それ以来、歩行が次第にしんどくなり、車いすに乗って移動することが多くなった。球場へ取材に出向くときも車いすである。

現役時代から私をよく取材し、30年来の同志とも言えるベテラン記者に出くわした私は思わず、「いかに楽して死ぬかしか考えとらんわ」と心にもないブラックジョークを言ってしまった。知らず知らずのうちに、私は人生の晩年を迎えていた。「死」というものは季節の移ろい以上に細やかに音もなく近づいてくるものなのかもしれない。

明智光秀の「死」もまた音もなく近づき、しかし私とは違い、豪然と光秀に襲いかかった。天正10年(1582年)6月2日の「本能寺の変」の11日後。6月13日に光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた。その夜、坂本城を目指し、わずかな家臣に守られて逃走した。