コラム:米国で低インフレと低失業率「併存」の謎=竹中正治氏

コラム:米国で低インフレと低失業率「併存」の謎=竹中正治氏
 7月5日、竹中正治・龍谷大学経済学部教授は、賃金もインフレ率もあまり上がらないのであれば、結局、景気は過熱せず、高揚感はないが、だらだらした景気回復が継続すると指摘。提供写真(2017年 ロイター)
竹中正治 龍谷大学経済学部教授
[東京 5日] - 米国の完全失業率は1970年以降では好況期の極めて短期間を除いては4%割れを起こしたことがなく、4%台の失業率は事実上の完全雇用に近いと考えられている。
景気回復の持続で現在の失業率は4.3%(2017年5月)まで下がった。ところが、消費者物価指数(除く食料とエネルギー)に見るインフレ率は前年同月比で一時2%を上回ったものの、直近再び2%割れとなった(1.7%、2017年5月)。
なぜインフレ率は軟調なのか。低インフレから抜け出せない日本の状況にも示唆的なので、その原因と経済、金融への影響を考えてみよう。
<安定的ではないフィリップス曲線>
経済学の教科書には必ず掲載されているフィリップス曲線であるが、近年この形状に関心が注がれている。横軸に失業率、縦軸にインフレ率を置くと、右肩下がりの近似線が描ける。つまり失業率とインフレ率の間には負の相関関係(トレードオフ)があることを意味する。本論では分かりやすく単純化して、分布の近似線がフィリップス曲線を表すとしよう。
米連邦準備理事会(FRB)はその使命として雇用の最大化とインフレ率の安定という2つの役割を担っている。政策手段として金融政策1つしかないにもかかわらず、FRBが異なる2つの政策目標を実現できるとされる理論的な根拠として、このフィリップス曲線が安定的に存在することが想定されていると言えよう。
ところが、実際にはフィリップス曲線の傾きはそれほど安定的ではない。米国についてざっと概観すると、安定的な右肩下がりの関係があったのは、戦後ではまず1950年代から73年までである。70年代には失業率とインフレ率が同時に上昇するスタグフレーションを経験した。これは最も望ましくない逆フィリップス曲線状態だと言えるだろう。
80年代前半にインフレ体質根絶のために厳しい金融政策が採られ、それに伴う景気後退で失業率は10%まで上昇する代償を払ったが、インフレは鎮静化に向かった。90年代にはインフレ率のすう勢的な低下と失業率の低下という70年代とは反対の望ましい逆フィリップス曲線を経験した。
その後2000年代前半には再び安定した右肩下がりのフィリップス曲線が戻った。後にFRB議長となったバーナンキ氏が2004年に「大いなる安定(Great Moderation)」と呼んだ時期である。しかし、「大いなる安定」の下で住宅バブルが急速に膨張していたわけだ。
ところで、失業率はゼロまで下がらない自然失業率と呼ばれる水準がある。自然失業率は、1)自発的失業率(より良い条件を求めて失業中の労働者)、2)摩擦的失業率(転職活動中の労働者)、3)構造的失業率(職種、年齢、地域などを巡って生じる労働需要と供給のミスマッチ)から成る。失業率がこの自然失業率の近傍まで下がると経済の供給力の限界にぶつかるため、物価は急速に上昇し、フィリップス曲線は急勾配になると考えられてきた。
日銀の黒田東彦総裁や原田泰審議委員らが、日本でも3%割れの失業率になってきたことで(4月2.8%、5月3.1%)、いよいよ賃金上昇、物価上昇という力が強くなるのではないかと期待をにじませる発言をしているのは、こうした考え方に基づいている。
<フィリップス曲線の低位水平化という異変>
ところが、米国のフィリップス曲線に異変が生じている。米国の自然失業率と考えられている4%近傍まで失業率が低下しているにもかかわらず、インフレ率が望ましいと考えられている2%を超えて上がらないのだ。すなわちフィリップ曲線の低位水平化である。
下記の掲載図をご覧いただきたい。横軸に失業率、縦軸にFRBが物価指数として重視している個人消費支出(PCE)物価指数(除く食料とエネルギー)の前年同月比の変化をとってある。近似線がフィリップス曲線を示す。ただし、景気循環を考慮した期間で近似線を描かないと恣意的になる。そこで米国の公式の景気循環の判定に基づいて、1つの期間に景気の山と谷を含むように景気の山から次の山までの期間をとった。ただし、直近の期間だけは金融危機後の状況が分かるように2009年6月の景気の谷で以下のように時期を分けた。
●1990年7月(景気の山)から2001年3月(山):青色
●2001年3月(景気の山)から07年12月(山):緑色
●2007年12月(景気の山)から09年6月(谷):橙色
●2009年6月(景気の谷)から17年5月(現在):赤色
(1990年以前は図が重なり見難くなるので省略)
青色の90年代は92年頃を境に近似線が右肩上がりとなる逆フィリップス曲線となっている。2000年代の金融危機前の緑色と危機後の赤色の期間を比べると、危機前は失業率4%台前半に対応するインフレ率は2.5%近辺だったが、今は1.5%前後に低下している。またフィリップス曲線の傾き(近似線の傾き)も、危機前の緑の期間や危機後の傾向後退期の橙色の期間に比べて水平化(フラット化)している。つまりフィリップス曲線がより低位に、より水平にシフトしているのだ。
フィリップス曲線の水平化について、論文や調査は近年多く、日銀の調査レポートは欧米諸国の対象16カ国中、13カ国で水平化が見られると報告している(末注1)。
<主因は賃金伸び率の低下>
なぜフィリップス曲線の低位水平化が起こっているのか。ここでは米国の金融危機後の状況に絞って考えてみよう。失業率の低下が直接的にインフレ率を押し上げるわけではない。失業率の低下、賃金上昇、消費需要増加、物価上昇という経路をたどるわけである。ところが、日本だけでなく米国でも失業率の低下にもかかわらず、賃金上昇率が危機前に比べて明らかに低いのだ。
この点、2009年を底に景気の回復が始まってしばらくは次のように説明されていた。すなわち、金融危機後の大景気後退で失業率は一時10%を超えるほど急騰した。そのため景気回復過程に入っても求職活動自体を諦めてしまった人々が大規模に発生した。彼らが景気回復でじわりじわりと労働市場に戻ってくるので、見かけの失業率の改善ほど労働需給は逼迫(ひっぱく)しておらず、その結果、賃金の上げも鈍くなった。
この時期は、労働参加率も人口動態要因以上に低下したので、この説明には説得力があった。ところが、失業率が4%台前半まで下がり、労働参加率も持ち直し始めた現在では、こうした事情はもう終わっているはずだ。それにもかかわらず、賃金の上げが鈍いのだ。
この点に関わる日本の事情については前回コラム「日本経済、低インフレから脱却なるか」(2017年5月30日掲載)で述べた通りである。すなわち、物価と賃金の変化は相互循環的な因果関係に本来あるのだが、日本では97―98年の戦後最大の不況を境に労使の姿勢など労働市場が構造的な変化を起こし、賃金抑制スタンスが恒常化し、物価に対する賃金要因が希薄化してしまった。
米国の賃金抑制に関しては、日本と共通する部分もあるが、同じではなさそうだ。この点について、国際通貨基金(IMF)のエコノミスト、ステファン・ダニンガー氏の論説他を参考に手短に紹介しておこう(末注2)。
第1の要因は、金融危機による深い景気後退の結果、長期に職から離れた労働者が増えたことだ。長い失職期間を経た後に職に復帰する場合、キャリアの空白期間を反映して賃金は失職前よりも低くなる傾向があり、それが平均賃金を押し下げる。これは中期の循環的な要因であり、時間が経てば解消する。
第2の要因は、同じ職を持続した労働者についても賃金上昇率は危機前と後では年率で約1%も低下していることだ。これに関する1つの説明は、名目賃金の下方硬直性である。2009年の深い不況下でも名目賃金の大幅な削減は強い抵抗を受けるため抑制されるが、回復期には反対に回避された賃金引き下げに見合う分だけ賃金上昇が抑制される。この場合も中期循環的な要因である。一方、危機後に見られる労働生産性の低下傾向が原因という指摘もある。ただし、労働生産性の低下自体の原因については諸説あり、定説はない。
第3の要因として、AI(人工知能)やIoT(モノのインターネット)などの普及によるイノベーションで中間所得層から中上位所得層の労働の機械による代替が進み、相対的に少数の高所得の職業と多数の低所得の職業への二極化が、平均賃金を押し下げる要因となっている可能性がある。ただし、この点についてダニンガー氏の調査では、低賃金の職業が平均賃金を目立って押し下げるほど急速に増えているとは確認できなかったという。しかし、この傾向が本格化するのはこれからなのかもしれない。
第4の要因としてダニンガー氏が強調するのは、労働の移動性の低下である。同一企業での就業持続志向が強い日本人には、この点は分かり難いかもしれない。米国では転職を繰り返しながら経験を積み、スキルアップし、給与も上げていくキャリアモデルが一般的である。そのため、労働の移動性、すなわち転職率の低下は賃金上昇率の低下と結びつく。ただし、労働の移動性の低下自体の原因は不確かで、循環的な要因か構造的な要因か判然としない。
第5は労働組合の組織率の低下や交渉力の低下による影響である。こうした傾向は1980年代から長期に継続しているものであるが、金融危機後、この点で一段と労働組合側の譲歩や交渉力の低下が起こったとする調査結果もあるそうだ。
以上の通り、危機後の賃金伸び率の低下がどこまでが中期循環的な要因、あるいは長期的、構造的な要因であるのか判然としない。とりあえず米国でも賃金抑制が長期化しそうな要因候補が複数存在している点に注意しておこう。
<それでもFRBは出口に向かう>
金融政策にとってフィリップス曲線の低位水平化は何を意味するだろうか。ほぼ水平ならば、インフレ率は安定しているので、むしろ失業率(雇用)を見ながら金融政策を操作すれば良いということになるだろう。そうであるならば米国の4%台前半の失業率は、4.5兆ドルまで膨らんだFRBのバランスシートの正常化という最終出口へのゴーサインであろう。
懸念はむしろ低インフレであることだ。このまま2%割れの低インフレが持続すれば、政策金利の引き上げも小幅にとどまる。その結果、次回景気後退に直面した場合の、金利引き下げ余地も狭まる。量的な金融緩和で4.5兆ドルまで膨らんだFRBのバランスシートを十分圧縮する前に次の景気後退を迎えてしまえば、将来の量的金融緩和の発動余地も狭まる。
トランプ政権が公約していた大規模な減税やインフラ投資を実行すれば、一時的でも景気が上振れ、そのことに助けられて金利を引き上げ、伝統的な金融政策に戻る度合いも高まっただろう。しかし、トランプ政権の現状を見る限り、そうした可能性はしぼみつつある。
結局のところどうなるか。実は私はそれほど悲観していない。賃金もインフレ率もあまり上がらないのであれば、結局、景気は過熱せず、高揚感はないが、だらだらした景気回復が継続するだけだからだ。
唯一のリスクは実体経済面では過熱感がないまま、低金利の持続で再び資産バブルとその崩壊が起こり、景気後退が起こることだ。どうやら2000年以降の先進国経済は、賃金や物価の変動を軸にした従来型の景気循環から、資産価格の上昇と下落を伴う信用の膨張と収縮を軸にした信用循環(credit cycle)にその性質を変容させたのかもしれない。
S&P500の株価収益率(PER)で25倍を超えた株式市場は、バブル警戒域に入っている可能性が高い。現下の低失業率を勘案し、資産バブル発生のリスクも視野に入れるならば、FRBは量的金融緩和からの最終的な出口政策を進めるだろう。短期政策金利の引き上げはインフレ率の動向に依存する。しかし、FRBのバランスシートの正常化は、理論的には長期金利を将来にわたって市場が予想する短期金利の水準に誘導、収束させるだけだから、低インフレの下でも正当化されやすい。
したがって、FRBのバランスシートの圧縮は年内に始まり、先日公開された通りのテンポで進められるだろう。それは現下の経済情勢への対応であると同時に、事実上は次の景気後退時の金融政策余地の確保を意識したものと言えるだろう。
注1:伊達大樹、中島上智、西崎健司、大山慎介「米欧諸国におけるフィリップス曲線のフラット化-背景に関する3つの仮説」日銀レビュー2016年5月
注2:Stephan Danninger “What’s Up with U.S. Wage Growth and Job Mobility?” IMF Working Paper WP/16/122
*竹中正治氏は龍谷大学経済学部教授。1979年東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)入行、為替資金部次長、調査部次長、ワシントンDC駐在員事務所長、国際通貨研究所チーフエコノミストを経て、2009年4月より現職。経済学博士(京都大学)。最新著作「稼ぐ経済学 黄金の波に乗る知の技法」(光文社、2013年5月)
*本稿は、ロイター日本語ニュースサイトの外国為替フォーラムに掲載されたものです。(here
(編集:麻生祐司)
*本稿は、筆者の個人的見解に基づいています。
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