ブログ:もう一つの香港、静かな時間が流れる「境界」の町

ブログ:もう一つの香港、静かな時間が流れる「境界」の町
香港側で養殖業を営むアンドリュー・クウォックさんが、釣りから戻ってきた。対岸の深センは大きく景色が変わり、高層ビルが林立するようになった。2019年10月、落馬洲で撮影(2020年 ロイター/Kim Kyung-Hoon)
Sharon Tam
[香港 6日 ロイター] - 1997年の返還から20年以上が経過した今も、香港と中国本土との間には長いフェンスが張り巡らされている。こうした境界沿いに暮らす人々の風景と生活からは、フェンスを挟んで互いに共存する2つの異なる体制が垣間見える。
一帯の住民は、香港で連日繰り返される反政府活動のデモ行進、飛び交う催涙ガスや火炎瓶からは遠く離れている。彼らは中国の急速な都市化を眼前にしつつ、ゆったりとした時間が流れる生活を維持してきた。
30キロメートルに及ぶこの境界線は、養殖池や農地、活気のない伝統的な村が広がる香港側と、ハイテク都市・深センの超高層ビルが林立する中国側との間を縫うよう伸びる。かつて牧歌的な田舎だった深センの風景は、デジタル化、ハイテク化され、未来的なものになった。一方、80代のラムさんが住む香港側の家は、携帯電話の電波が届かない。
カニを養殖するラムさんは70年前、家族と「深セン川」沿いに立つ木造の小屋に住んでいた。当時ははるかかなたの岸におんぼろ小屋があっただけだったと、ラムさんは遠くを見つめながら語った。
「本土は大きく変わった。街はすっかりきれいになり、すべてが素晴らしい」。
激動の時代が続いた共産党支配の中国から、人々は平和とより良い生活を求めて国境を越え、香港に押し寄せた。英統治下の警察は懐中電灯を持ち、不法に渡ってくる人々を追いかけた。ラムさんは、闇を照らすその光を今でも覚えている。
この辺りで養殖業を営むアンドリュー・クウォックさんは、危険を冒して川を渡ろうとし、溺死した人々の姿を思い出す。「何百もの死体が浮いていた」と、クウォックさんは話す。
対岸で寂しげに揺れていたたいまつは、今では大都市に瞬く100万の光に取って代わられた。
両岸での生活水準の差は埋まったかもしれないが、川はそこに残されたままだ。両側どちらの人々にとっても、めまぐるしく変化する時代や価値観、夢と折り合いをつけるのは困難だ。
23歳のメリン・ケさんは深センで育ち、香港理工大学で修士号を取得した。彼女は最近上海に移るまで、気ままに両側を行き来していた。
「今の香港は非常に繊細な状況で、政治的立場の違いから対立が生まれやすいと思う。だから香港を離れ、緊迫した環境から逃れることを決めた」
デモは沈静化する兆しをみせていないが、ケさんは分裂を克服できると楽観的に考えている。
「香港から深センに遊びに来る人はたくさんいたし、中国本土から香港へ行く人も多かった。今はそうした行き来が減っている」と、カさんは言う。「違いを脇に置くべきだが、一方だけがそうしても十分ではない。ともに歩いていくことが重要だ」
(撮影:Kim Kyung-Hoon、Tyrone Siu 翻訳:久保信博 編集:宗えりか)

私たちの行動規範:トムソン・ロイター「信頼の原則」, opens new tab