コラム:故ボルカー元FRB議長、いま問われる真の評価

コラム:故ボルカー元FRB議長、いま問われる真の評価
12月17日、先週死去した故ポール・ボルカー元FRB議長に対する多くの追悼記事は実に情熱的で、同氏による1980年代初めのインフレ克服、2009年金融危機後に見せた銀行批判についての称賛に溢れていた。写真は2009年1月、米上院金融委員会の公聴会に出席したボルカー氏(2019年 ロイター/Brian Snyder)
Edward Hadas
[ロンドン 17日 ロイター BREAKINGVIEWS] - 先週死去した故ポール・ボルカー元FRB議長に対する多くの追悼記事は実に情熱的で、同氏による1980年代初めのインフレ克服、2009年金融危機後に見せた銀行批判についての称賛に溢れていた。だが、そうした熱っぽい賛辞は行き過ぎではないだろうか。
まずインフレへの対応を見ていこう。1979年8月、ボルカー氏が金融政策トップの座に就いた時点で、消費者物価の年間インフレ率は、それに先立つ2年間で6.6%から11.8%に上昇していた。月間で最も高かったのは、1980年4月に報じられた14.6%である。
ボルカー氏はこの時点まで思い切って政策金利を引き上げ続け、米国経済がリセッションに陥るほどだった。インフレ期待という呪縛を解くには他に方法がなかった。というより、それが通説だった。
政策金利とインフレ率との相関関係については疑問の余地はない。フェデラルファンド(FF)金利は1979年8月の10.9%から、翌年4月には17.6%、1981年1月には19.1%に上がった。この間、FF金利が1桁台になった月は3ヶ月しかない。年間インフレ率は[1980年]4月にピークとなった直後から低下し、1981年の大半の時期を通じて10%前後で推移した。その後の低下は急激で、1983年半ばには3%を割った。
だが、相関関係は因果関係の証拠にはならない。ボルカー氏の剛腕に一体どれほどの功績があったのか、疑うべき十分な理由が2つある。
第一に、米国におけるインフレ抑制の実績は、飛び抜けて優秀ではない。1980年代前半には、ほぼすべての国でインフレ率は低下した。国際通貨基金のデータによれば、1980年から1983年までの年間インフレ率を見ると、日本では7.8%から1.9%、英国では16.8%から5.2%、伝統的にインフレに対する警戒心が強いドイツでは5.4%から3.3%に、それぞれ低下している。労使協定が特にインフレに寛容であるイタリアでさえ、21.8%から14.7%への低下が見られる。
中央銀行の政策がこうした変化にある程度、影響している可能性はあるが、多国間の金融政策協調は、今日に比べればはるかに例外的だった。多くの国々におけるインフレ低下傾向の原因としては、世界共通である原油価格の方が候補として明らかに有力である。
ボルカー氏がFRB議長に就任する前の10年間、原油の年間平均価格は、名目ベースで1バレル3.35ドルから26.50ドルに上昇した。その後もイラン・イラク戦争へと至る緊張激化を主因として、価格はさらに高騰した。マクロトレンズのデータサイトによれば、1980年4月の月間平均価格は1バレル39.50ドルまで跳ね上がった。
だがその後、石油価格の流れは変わった。それから2年間で、原油価格は名目ベースで15%下落した。依然として高かった米国のインフレ率を考慮すると27%の下落である。エネルギー価格の低下は、借入コストの上昇以上に、インフレの勢いに対して大きな経済的・心理的影響を与える可能性がある。
ボルカー氏の反インフレ姿勢が信頼に値するものだったかどうか、それを疑うもうひとつの理由は、金融危機以来、各国中央銀行がインフレ率をコントロールできてこなかったという点だ。これだけ長く続く失敗が示唆しているのは、そもそもインフレの仕組みに関する最も優れた理解でさえあまり正確ではない、ということである。
インフレを加速し、あるいは減速させる要因は何か。経済的なショック、消費者・企業の心理、人口動態、財政政策、そして金融政策のあいだの相互作用である。インフレ抑制に対するボルカー氏の貢献は、彼の超高金利政策が経済に与えた影響に比べれば、それほど自明ではない。1980年のリセッションは、インフレ抑制を意図したボルカー氏の金利引き上げによるものだと広く考えられているが、これによって1982年の米国経済は、1980年当時と同じ規模に留まってしまった。
さて、ボルカー氏によるインフレ対策が不必要なまでに厳しかった可能性はあるが、金融セクターの過剰投資に対する戦いぶりは、腰が引けていたように見える。同氏の名を冠した「ボルカー・ルール」は、銀行による自己勘定取引を制限するものだが、2008~09年の金融危機のぎりぎり最後の段階で登場した。
業界の慣行を変えさせるという点でもっと大きな権限を持っていた頃、業界による違法行為に対するボルカー氏の関心ははるかに低かったようである。1984年、ボルカー議長は、当時としては過去最大規模となるコンチネンタル・イリノイ銀行の救済を指揮していた。ボルカー氏が預金者・債権者の誰もが金銭的な損失を被らないことにこだわったことで、「トゥー・ビッグ・トゥー・フェイル」という言葉が一般的になった。議論の余地はあるが、このときに最終的に政府が救済の受け皿となったことで、銀行各行が熱心にリスクをとるようになり、最終的に2008~09年の金融危機につながったとも言える。
ボルカー氏は1987年に公職を離れた。金融危機以前に見られた最悪の過剰投資が始まるよりもずっと前である。とはいえ彼は、1993年には銀行によるデリバティブ利用に関する有識者会議の議長を務めている。最終報告書の序文でボルカー氏は、デリバティブなどによって「システミック・リスクが目に見えて悪化したわけではない」と断言している。現代における金融投機の中心商品に関して、これはあまりにも楽観的な判断であったことが判明した。
こうした事実が歴然とした時点では、ボルカー氏はすでにかなりのセレブリティだった。こうした名声は現代の中央銀行当局者としては前例のないものであり、それは12月8日に世を去ってからも維持されている。ボルカー氏自身は、誰の話を聞いても、規制当局者として真摯で良心的な人物であり、その後の仕事も誠実なものだった。ボルカー氏について最も責めるべき点があるとすれば、それは、彼の時代の常識に過剰なまでに忠実すぎたという点だろう。
とはいえ、政治家やエコノミストとしては、第二のボルカー氏を探すよりも、むしろもっと偉大な知性を求めるべきだろう。インフレの勢いをくじいたのがボルカー氏の勇気ある行動であり、あるいは同氏が与えた予言が銀行による過剰投資の評価を引き下げていたのであれば、同氏に対する称賛も当然であろう。だが事実に基づくならば、もっと慎重な判断が必要である。
*筆者は「Reuters Breakingviews」のコラムニストです。本コラムは筆者の個人的見解に基づいて書かれています。
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