田淵、江夏と歩んだ「青春」のスポーツ紙――殿堂入りで思い返した明石家さんまの舞台

[ 2020年1月15日 11:00 ]

舞台『PRESS~プレス~』パンフレットに載った昭和40年代スポニチ本紙(大阪)のコラージュ
Photo By スポニチ

 【内田雅也の広角追球】主演・明石家さんま、脚本・生瀬勝久の舞台『PRESS~プレス~』(2012年)は昭和40年代、大阪・キタに本社を置くスポーツ新聞「堂島スポーツ」で展開される笑いあり、涙ありの群像劇だった。

 冒頭、編集局。机の上にあった当日の1面が目に留まる。大きな見出しで「すごいぞ田淵、かつ丼三杯ぺろり!」とある。巨人―阪急の日本シリーズはスコアと試合時間だけが小さく載っているだけだ。トラ番(阪神担当記者)の「この偏った記事のおかげで読者が増えているのも事実なんです」とのセリフがある。

 相当にデフォルメされているが、阪神中心の紙面作りが定着したのはこの昭和40年代だった。阪神で田淵幸一(本紙評論家)や江夏豊(野球解説者)が「黄金バッテリー」と呼ばれ、活躍していた時代である。

 舞台の主催者から依頼を受け、パンフレットに原稿を寄せた。仲介者によると、明石家さんまは「関西のスポーツ新聞が一番元気だった時代の熱気を伝えたい」と話していたそうだ。自身が芸能界デビューに向け、下積みしていた時代でもある。スポーツ紙にも夢や希望をみていたのかもしれない。

 先輩のトラ番に聞いた話として、こんな逸話を書いた。

 試合前フリー打撃を終えた田淵が甲子園球場内のサロン「蔦」(つた)で腰を下ろし、ひと息入れる。周りをトラ番が囲む。テーブルにはその日のスポーツ各紙が置かれている。1面トップは前夜、本塁打を放った「田淵」の大見出しが並んでいる。

 「しかしまあ、皆さん、うまく書きますね」と田淵が感心したように言う。前夜の試合には敗れており、田淵は試合後、ひと言「シュート」と言っただけだった。それで1面トップ原稿を書かねばならない。

 「シュート」ひと言120行――とトラ番たちは言い合っていた。1行15字詰の時代である。1800字をナイター終了後、締切時間と格闘しながら書き殴った。日々の取材から得たエピソードがなければ、120行はもたない。各紙とも“物語”は異なるが、田淵とトラ番は信頼関係で結ばれていた。

 田淵がいつも打った球を「シュート」としか言わない理由も承知していた。内角に食い込む球が苦手だった田淵は紙面にそう掲載されることでシュートが減ることも計算していた。

 このトラ番たちの逸話も引用して、ノンフィクション作家・後藤正治は『牙――江夏豊とその時代』(講談社文庫)で<江夏―田淵。二人は、タイガース史上、もっとも華やかなコンビだった>と書いた。<ONとの違いは、互いにどこか弱さともろさを帯びていたことだろう。それがまた、夜空に流れる帚星(ほうきぼし)のごとく、消え行くゆえの煌(きら)めきを残している>。

 黄金バッテリーが立ち向かったON(王貞治、長嶋茂雄)の巨人はあまりに強かった。昭和40年に始まる9連覇(V9)とピタリ時代が重なっている。阪神は挑み続け、そして負け続けた。

 だが、後に他球団へトレードで放出される田淵も江夏も若き日々を過ごした阪神時代が「青春だった」と口をそろえる。

 14日に野球殿堂入りを果たした田淵について江夏に話を聞いた。15日付の本紙紙面(および当サイト)に載っている。なかで、江夏は自ら好んで使う「青春」という言葉について語った。

 「青春なんていうのは昭和の言葉だよな。平成生まれの今の若者は使わんだろう。しかし、オレたちは青春と言うよ。あの昭和の時代こそおもしろかった。青春時代よ」

 古き良き時代を懐かしむ口調だった。青春には蹉跌(さてつ)がつきまとう。『牙』にある。<東京に、巨人に挑み続け、弾(はじ)き返され続けたタイガース。大阪のスポーツ新聞は、抜きつ抜かれつの熾烈(しれつ)な競争を繰り広げつつ、縦縞と身がらみになってともに“大阪ブルース”を奏でていたのかもしれない>。

 昭和40年代は明石家さんまが言うように田淵や江夏とともにスポーツ紙も青春時代だった。

 『PRESS』では、女優の結婚スクープを事情をかんがみて握りつぶし、代わりに田淵がうどんを5杯食べた記事と写真で1面をいく。見出しは「田淵、きつねうどん打法開眼?」だった。どこか、ぬくもりのあるシーンである。

 タイガースもスポーツ紙も、青春時代を懐かしむばかりでは寂しい。サミュエル・ウルマンの詩に<青春とは人生のある期間ではなく、心の持ちかたを言う>とある。<二十歳であろうと人は老いる。頭(こうべ)を高く上げ希望の波をとらえる限り、八十歳であろうと人は青春にして已(や)む>。

 年末年始とテレビで明石家さんまをよく観た。あの情熱的、精力的な姿は励みになる。その言葉を使うことに恥ずかしさなどない。大阪のスポーツ紙も、タイガースも「青春」でいきたい。=敬称略=(編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。少年時代はテレビの青春ドラマ全盛期だった。今回、江夏さんの取材で「実績と経験で今の立場があるんだろう。江夏担当なら立派な野球記者だ」と、担当拝命と激励の言葉をいただいた。大阪本社発行紙面で阪神を追うコラム『内田雅也の追球』は14年目を迎えた。

続きを表示

2020年1月15日のニュース