「寂しいね…」張本さんが明かした野村克也さんとの“ライバル秘話”

[ 2020年2月12日 09:00 ]

18年2月、巨人・ホークスOB戦の前に野村氏(前列)を囲み記念撮影する(後列左から)長嶋氏、張本氏、王氏
Photo By スポニチ

 昭和のパ・リーグの、泥臭く熱き戦い。スポニチ本紙評論家でもある張本勲さん(79)の言葉を聞いて、私自身もまだ生まれていなかった時代のプロ野球の息吹を感じた。

 11日、野村克也さんが84歳で死去した。南海時代の1965年(昭40)に戦後初の3冠王となり、本塁打王9度、打点王7度などの輝かしい実績を残した。訃報を受け、コメントをもらおうと張本さんの自宅に電話した。「寂しいね。非常に残念だ…」。そう言った張本さんは、野村さんと激しいタイトル争いを繰り広げていた当時のエピソードを教えてくれた。

 野村さんが3冠王に輝いた65年。張本さんはその年、スライディングで手首を痛めた影響で不振が続いていたという。シーズン打率・292。翌年から9年連続で打率3割をマークしているだけに、数少ない打率3割を切った年だった。

 シーズン後、野村さんと会った際に張本さんは言った。「ノムさん、俺が元気だったら(3冠王は)獲らせていませんよ」。返事は「うるせえ!」だったという。プロの世界の、さらにトップレベルで争っていた両雄。丁々発止のやり取りは、今聞いてもドキドキする。

 実際、張本さんは2年後に野村さんの3冠王を阻止している。67年、野村さんは35本塁打、100打点で2冠。しかし打率・305でリーグ3位に終わり、同・336の張本さんが首位打者に輝いた。

 当時の南海の本拠地は大阪球場。両翼91・5メートル、中堅115・8メートルと狭かった。無理に力を入れずとも、コンパクトに打てばスタンドまで飛ぶ。「そこが野村さんの頭の良さだよ」と張本さんは言う。

 バットを長く持って遠心力を利用すれば確かに打球は飛ぶが、一方で確実性は減る。本塁打、打点に加えて打率と、全ての部門で高い数字を残すための打法。野村さんはバットを余らせて握っていたといい、「それで本塁打を量産したのは、野村さんと王(貞治)ちゃんしかいない」と張本さんは振り返った。

 激しくタイトルを争ったライバルが旅立った。張本さんは「寂しいね…」と何度も繰り返した。(記者コラム・鈴木 勝巳)

続きを表示

2020年2月12日のニュース