追悼連載~「コービー激動の41年」その37 ジャクソンが持っていたコービー観

[ 2020年3月24日 09:26 ]

2月24日、故ブライアント氏の葬儀に参列したジャクソン氏とレイカーズ関係者(AP)
Photo By AP

 コービー・ブライアントはレイカーズに入団してNBAの歴史に名を残している多くの人間と出会った。2000年、自分にとって初優勝を飾ったあとに辞任したジェリー・ウエストがそうだし、指揮官だったフィル・ジャクソンもそうだった。

 ただしホーネッツとのトレードでブライアントをレイカーズに引き寄せたウエストは父親的存在の“擁護派”だったが、その後に「雪解けムード」になるとは言え、ジャクソンは結果的にそうではなかった。それはある意味、ブライアントが歩んだ道がどれほど険しかったかを物語る部分でもある。

 まず2013年刊行のジャクソンの著書「11個の(優勝)リング。成功の秘訣(Eleven Rings : The Soul of Success)」を紹介しておきたい。この中で、ジャクソンはマイケル・ジョーダンとコービー・ブライアントに違いについて具体的に言及している。

 まずジョーダンについては「リーダーとして素晴らしい資質を持ち合わせていた」と絶賛。「確かにチームメートに対して辛らつにふるまうときもあったけれど、その存在感によってチーム内にうごめく複雑な感情をコントロールできた」と述べている。それに対してブライアントについては「マイケルが持っていたような骨の髄までしみこんだリーダーシップはなかった」とばっさり。「マイケルはコービーよりもカリスマ的であり自分がいる集団を重んじた。なにより社交的だったのでみんなから受け入れられた」とこの本の中ではジョーダンとブライアントの人間、そしてプレーヤーとしての違いを、バスケのファンが抱いている以上に大きく、重く、痛切に描いている。

 2人のディフェンス面でも違いを指摘。「マイケルはタフなディフェンダー。やる気を見せたときにはほとんどの選手をもの凄い集中力で阻止できた」と語っている一方で、「コービーは1人よがりのディフェンスでギャンブルをしてしまう。時として高くつく代償を支払っていた」としている。つまりジョーダンは止めるべきときには100%確実な方法で完ぺきに相手を食い止めたのに対し、ブライアントは自分の勘に基づく読みが当たれば阻止、外れればスルーという「一か八かの守り」を続けていたと主張している。つまりこの本の中ではブライアントはまさにヒール役となっているのだ。

 だがジャクソンはこの本が世に出る前に、すでにブライアントが抱える多くの欠点を指摘していた。それが2005年にニューヨーク・タイムズ紙が刊行した「The Last Season」という本の中で紹介されている。わずか289ページのペーパーバックだが、ここにはジャクソンのブライアントに対する本音と舞台裏の姿がたっぷりと書き連ねられている。さらに2000年シーズンからのスリーピート(3連覇)の立役者となったシャキール・オニールとブライアントの「仁義なき冷戦」も具体的に記されている。

 なのでここからはこの本をテキストにして、NBA史上稀にみる破滅的な?物語を追っていこうと思う。今となっては天国でレジェンドとなったブライアントの思い出のひとつだが、これもまた記憶に残る真実なのだ。

 副題は「A Team in Search of its Soul」。適訳は見つからないが、勝つための秘訣を求めていたチーム、という意味になるのかもしれない。

 この物語の起点は2003年7月11日。それはブライアントがジョーダンとの“最終決戦”を終え、さらにファイナル4連覇をスパーズに阻まれてから(西地区準決勝で2勝4敗)1カ月後の出来事だった。ブライアントの周囲は1年を通して荒れ模様。レイカーズの内部は揺れ動いていた。そしてジャクソン監督は信じられない知らせを受け取ることになった。(敬称略・続く)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

続きを表示

2020年3月24日のニュース