【越智正典 ネット裏】読者の皆さまには沢山のセンバツの思い出をお持ちのことと思います。私にはずいぶん前のことになりますが、昭和51年の第48回大会が忘れられません。それというのもセンバツ担当超1000試合(同、正月の高校ラグビー)のちに、プロ野球の、江夏豊のあの21球の名勝負を見事に実況放送した大阪毎日放送の城野昭アナウンサーにお世話になった大会だったからです。

 その晩、私は島根の大社高校の大会宿舎、甲子園口3丁目の「かぎ屋」旅館を訪ねた。ちょうど晩ごはんのあと、野球部長の黒田邦宏先生と高島忠善監督の指導で国語の勉強が終わったところだった。「どうぞ」。広間に案内して頂いた。

「これから生徒たちを近くの銭湯に行かせます。2時間ぐらいは帰って来ませんからゆっくりして行って下さい」。両先生が笑った。

 選手たちが銭湯代をもらって出かけた。両先生は選手たちに重くのしかかるプレッシャーを除きたいと苦心していたのだ。そのひとつが銭湯“作戦”であった。

「彼らはお風呂屋さんでたのしくやって来ますよ」

 そういえば、この大会準優勝の、栃木の小山高校の若色道夫監督は甲子園に着くと大会宿舎の賄いさんに一覧表を見せて「食事はこのなかからお願いします」。若色監督は出場が決まると、選手たちの家でのメニューを調査した。特別なご馳走が出るとそれだけで選手は力む。ふだんどおりがいい…と調査の結果をまとめて頼んだのだ。これも苦心の“作戦”だった。

 翌日、大社高は千葉県の習志野高校と対戦した。6回、7回、ピンチが来た。選手たちは手を高くあげ、両回とも計13回もアウトカウントを叫んだ。一死と二死では次のプレーがちがう。7対8で敗れたが見事に戦った。

 そのころ、その日の出場チームは年金グラウンドで練習をし運動靴にはき替え甲子園球場のすぐ前の甲陽高校(当時)の校庭でもう一度練習してから球場に入り長椅子で待機する。

 純白のユニホームの選手たちが甲陽高校にやって来た。靴が、歩くと砂をかんでキュキュ…と鳴った。しっかり踏みしめている。日ごろの練習の成果、結晶にちがいない。

「筆山の麓 鏡川の畔 是れ土佐中学校(高)に非ずや 教育振えば国家栄え、教育振わざれば国家衰う」。大正9年4月創校の土佐高校ナインであった。彼らは甲陽高校校庭でキャッチボール30分。ドスンという捕球音はなかった。ピシッ! しっかりつかんでいた。それから目の前の甲子園球場へ向かった。また、砂をかんで靴が鳴った。それは春のシンフォニーのように思えた。

 大会後、ロッテの有藤道世(高知高、近大、新人王、2057安打、監督)に会った。彼は土佐高の出身ではないが、土佐高校の籠尾良雄監督に感謝している。「籠尾先生は母一人子ひとりで、八重ちゃん食堂を開いていたおふくろをそれは大事にしてくれました」
 =敬称略=