【球界平成裏面史(17)・中日落合舌禍事件(3)】中日の主砲・落合博満内野手の自主トレ先、長野県・昼神温泉で平成元年(1989年)1月17日に勃発した“舌禍事件”。落合は星野仙一監督の名前こそ口にしなかったが、首脳陣の方針に対する不満をブチ上げたことで、翌18日には本紙を含め、スポーツ紙は揃って「落合 星野批判」と報道した。

 星野監督は表面上、この件に声を荒らげることはなかったが、中日・中山了球団社長は見過ごさなかった。落合は一般論を述べただけとの考えで、問題ないはずと予測していたようだが、球団は容赦なしだった。中山社長が「一般論でも言い過ぎ」と憤ったように、状況は落合にとって悪くなるばかりだった。

 それでもオレ流は引かなかった。自主トレ先の昼神温泉に“籠城”の形を取り、球団が500万円から1000万円の高額罰金などの処分を検討しているなか、敢然と抵抗した。球団が自分の言い分よりもマスコミ報道を優先したことへの不信感も重なってのことだった。そして「それならやめる」とまで言いだしたという。

 これには球団サイドも慌てた。懸命に説得に動いたが、オレ流はなかなか首を縦に振らなかった。1月21日には宇野勝内野手、小松辰雄投手、鈴木孝政投手の中日選手会役員が急きょ、昼神温泉に行き、落合と面会する事態にまでなった。17日の発言がここまでの大騒ぎに発展した。

 急展開したのは、宇野らの“昼神訪問”の翌22日だった。伊藤濶夫球団代表が名古屋市内のホテルに落合を呼び、事情聴取。その足で名古屋市千種区の星野監督宅を訪れ、落合に謝罪させた。さらにペナルティーとしてオーストラリア・ゴールドコースト一軍キャンプに参加せず、二軍の沖縄・具志川キャンプ行きが決まった。1000万円ともいわれた高額罰金に関しても球団側は否定しなかった。

 とても、球団の言い分を聞き入れそうになかったのが、終わってみれば、オレ流の方が屈してしまった形での決着。落合は「謝罪はしかたない。自分が火付け役になったんだから…」と反省の弁も口にした。実に毅然としていた17日の過激発言の時と打って変わって、22日の落合は無精ひげをはやし、憔悴しきっていた。記者は名古屋市内のホテルから帰りの車に乗り込むオレ流に聞いた。「落合さん、本当にこれでよかったんですか」と。

 落合は記者の顔をチラリと見て、こう答えた。「もう、何も言うな」。この件に関しては、これで終わりということだったが、その口調、表情には無念さがありありだった。納得はしていないが、これ以上、騒ぎを大きくするのも本意ではない。記者には、そんなふうにしか見えなかった。

 その後、落合は報道陣に筆談のみで対応する“口封じ二軍キャンプ”で調整。オーストラリア1次キャンプを終えた一軍が沖縄2次キャンプをスタートさせた2月15日から一軍に復帰した。そこで報道陣の前でも星野監督とがっちり握手して、この騒動は終わった。

 42歳の闘将と35歳のオレ流に中日球団フロントも加わってのバトル。振り返れば、これが平成最初のプロ野球界の“事件”だったと言えるのかもしれない。