【球界平成裏面史(37) 新庄引退騒動の巻】「暗黒時代のスーパースター」と言ったらNPB復帰に燃える本人に怒られるだろうか。4年ぶりの最下位に沈んだ平成7年(1995年)オフ、阪神の人気選手だった新庄剛志外野手が23歳で巻き起こした「退団騒動」は、いかにも当時のダメ虎らしいドタバタ劇だった。

 新庄はチームがV争いを演じた92年にブレーク。その後はメジャー、日本ハムなどで活躍し、数々のパフォーマンスでも話題を呼んで2006年に惜しまれつつ引退した。近年では最も記憶に残る名選手…。しかし、阪神での95年は「消したいぐらいの1年」だったに違いない。出場はブレーク前を除いて自己ワーストの87試合。打率2割2分5厘、7本塁打、37打点と散々で、中村監督の休養を受け、シーズン後半から指揮を執った「鬼平」こと、藤田監督ともソリが合わなかった。

 そうして迎えた問題の11月19日、新庄は球団との2回目の契約交渉後の記者会見で突然「野球に対するセンスがないから辞めたい」と現役引退を宣言した。予期せぬ事態に球団も仰天。同じ人気者の亀山やナインから「センスだけの選手が何を言ってるんや」と翻意を促され、当時の川島セ・リーグ会長からも引退宣言の撤回を求められたほど、その迷惑…いや衝撃度は大きかった。

 ところが、2日後の21日に減俸で契約更改した後の会見で、事態はあっけなく収束するから訳がわからない。「ユニホーム姿を見せるのが親父への一番の薬。自分の人生どうこうじゃなく命には代えられないから」と今度は現役続行を宣言。今回の騒動を故郷・福岡で心配していた父親の病状まで引っぱり出して落着したが、もっともすぐに父親が重病でもないことは分かっている。

 この退団騒動は二軍監督時代の藤田監督への不満が出発点だ。シーズン中に足首を痛めて二軍落ちしていた際、トレーナーに許可を得て別メニュー調整すると決まっていたのに「遅刻」ととがめられ、罰としてグラウンドでの正座を命じられた。さらに終盤に右ヒジを痛め、オフは治療を優先しようと考えていたのに黒潮リーグ(現在はみやざきフェニックス・リーグ)に強制派遣…。

「監督とは野球観が合わない」と訴え出した新庄ではあったが、あくまで自分の言い分だ。当時は首脳陣間で派閥争いもあり、藤田監督に体調に関する正確な情報が伝わっていない可能性もあった。しかし、恩師と慕う柏原打撃コーチがクビになったことで「もうやってられない!」と激怒。同コーチは後の野村監督体制で復帰し99年6月12日、新庄が甲子園での巨人戦で敬遠球を打ってサヨナラ安打を決めた際の指南役だ。当時、そんな信頼する人物まで奪われた新庄の不信感は頂点に達し、引退宣言につながった。

 だが、この新庄、もう一つ球団に“無理難題”を要求したことが後に判明している。引退宣言前の初回交渉で「僕をトレードに出してほしい。横浜(ベイスターズ)に行けないですか」と移籍志願し、当然ながら拒否されていたというのだ。トレードがダメで次が引退宣言だったとはあきれてしまうが、志願先がなぜ、縁もゆかりもない「横浜」だったのか?

 新庄と親しいある球団関係者は「理由は単純。“彼女が横浜に住んでるから”ですよ。誰かはわかるでしょ?」と小指を立てて説明し、あとは多くを語らなかった。当時の新庄の彼女といえば93年から交際がスタートし、00年オフに結婚したタレントの大河内志保さんだ。2人は07年に協議離婚するが、当時の新庄にすれば大好きな彼女のそばで“再出発”したかったのだろう。それにしても、そんな理由で…。

 今思えば“宇宙人・新庄”の公的イメージはこの退団騒動が「発起点」だったと思う。48歳となった新庄氏は昨年11月に突如、SNS上で「もう一度、あのグラウンドに立つ」と現役復帰を宣言。その言動が注目されている。今の窮屈な世の中、こんな奔放な男が明るくしてくれると信じたい。