【球界平成裏面史(50)】阪神が平成最後の盛り上がりを見せたのは平成26年(2014年)の日本シリーズ進出だろう。1985年以来の日本一はならず、1勝4敗でソフトバンクに力負けを喫したが、このポストシーズンで誰がCSファイナルステージで巨人を4勝無敗で倒し、最後の大舞台に出られるドラマを予想できただろうか。

 終幕は印象的だった。1勝3敗で迎えた日本シリーズ第5戦(ヤフオクドーム)は、0―1のビハインドで阪神9回の攻撃。ソフトバンクの守護神・サファテの3四球など制球難で一死満塁となった。ここで、この日2安打の西岡剛が打席に入ると、虎党のボルテージは最高潮に達した。

 だが、3ボール1ストライクから西岡は一ゴロ。そこから本塁、一塁へとボールが送られた。ホームゲッツーで試合終了と思われたが…。送球が西岡の左手に当たり一塁ファウルグラウンドを転々。その間に二塁走者が生還し、同点と一瞬は勘違いした。

 実際は打者走者の西岡がラインの内側を走ったため、守備妨害で併殺が認められゲームセット。守備妨害で日本一が決まる史上初のシリーズとなってしまった。とはいえ「短期決戦で弱い」という下馬評を覆し、球団史上初のCS突破にチームを導いたのは和田豊監督だった。

 虎党から「地味」だとやゆされた和田監督。だが、平成最後の夢を虎党に与えてくれたのは、まぎれもなくこの指揮官だった。

 84年のロサンゼルス五輪で金メダルを獲得。ルーキーイヤーの85年はV戦士にもなった。暗黒時代にも歯を食いしばり、94年には右打者では歴代1位のシーズン147単打を記録した。そのオフには球団生え抜き初の1億円プレーヤーにもなった。

 11年オフには外部招聘で梨田昌孝氏の名も挙がったが、真弓明信監督の後を受け12年から和田監督が誕生。初年度こそ5位だったが2位、2位、3位と4年で3度のAクラス入りを果たした。

 現在の和田テクニカルアドバイザー(TA)は85年から15年の31年間、タテジマのユニホームに袖を通し続けた。これは史上最長だ。この人物こそが、最も平成の虎を知る生き証人であることは間違いないと言っていい。

 12年ドラフトでは4球団競合の末、藤浪晋太郎の当たりくじを引き当てた。現役時代からスパイクを左から履くルーティンにあやかり、くじは左手で引いた。虎の未来の光も残してくれた。

 その和田監督の後を受けたのはアニキこと金本知憲監督。16年は4位スタートもオリックスから糸井嘉男を獲得した17年は2位。4番候補の大砲・ロサリオを獲得し「この3年で一番強い」と自信を持って臨んだ18年は、よもやの17年ぶり最下位で予想外の短命監督となってしまった。

 平成時代は9度の最下位に甘んじた。だが、それも過去の話だ。令和の虎は矢野燿大監督の下、Aクラス3位でスタート。今季は「矢野アロハ」でハワイV旅行をもくろんでいる。コロナ禍で揺れる球界を明るく照らす「虎フィーバー」。その中心に立つ矢野監督であってほしいと切に願う。