【正田耕三「野球の構造」(31)】1987年10月20日、神宮球場は異様な雰囲気に包まれていました。そう思っていたのは自分だけだったのか…。すでに巨人のリーグ優勝が決まった後で、言うなればこの日のヤクルト戦は消化試合。でも、僕にとっては初タイトルとなる首位打者がかかった大事な試合でした。

 前回も触れたように、バットの振りすぎで右手首を痛めていたため、思うようなスイングはできません。前の晩に宿舎で阿南準郎監督から「バントしろ」と言われていたため、腹は決まっていました。

 スタメンで「2番・二塁」に入っていたのは投手の鍋屋道夫。いわゆる偵察メンバーで、僕の出番は1回表に回ってきます。よほど前のめりになっていたのか、1番を打つ山崎隆造さんがベンチから出る前に、僕はネクストバッターズサークルでバットを振り始めてしまいました。

 山崎さんが凡退して、いよいよ出番です。「代打・正田」がコールされると左翼席のカープファンが一気に沸きました。マウンド上は84年ロサンゼルス五輪で苦楽をともにした伊東昭光。その初球です。ぎりぎりまで三塁に転がすと見せかけて一塁側にプッシュバント。一瞬、三塁側に向かいかけた伊東と一塁手の杉浦享さんの間を打球が転がる間に一塁を駆け抜け、僕はスコアボードに赤いHのランプを点灯させることに成功しました。

 運命の一打はシーズン15本目のバント安打。しかも最高の場所に転がってくれました。393打数131安打。単独トップだった巨人の篠塚利夫(現和典)さんは429打数143安打。打率はどちらも永遠に3が続く3割3分3厘で、僕と篠塚さんはタイトルを分け合うことになりました。

 僕の首位打者には数々の“オマケ”も付いていました。なんでもスイッチヒッターとしてはプロ野球史上初。本塁打0での首位打者も2リーグ制後では初めてだったのです。打撃コーチの内田順三さんとともに取り組んできたのは長打を捨て、転がす打撃。俊足を生かし、バント安打で首位打者を決めたのも実に僕らしかったと思います。

 タイトルというのは、そう簡単にチャンスが巡ってくるわけではありません。僕のシーズン最多安打は89年の161本ですが、打率3割2分3厘は巨人・クロマティの3割7分8厘には遠く及ばずリーグ3位でした。諦めかけていた僕の背中を押してくれた阿南監督には本当に感謝しかありません。

 一方で、タイトルには怖い側面もあります。次回はその辺についても触れていこうと思います。

☆しょうだ・こうぞう=1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。