ノーベル化学賞受賞者の根岸英一(ねぎし・えいいち)さんが5月6日、米・インディアナポリスの病院で死去した。85歳だった。

 2010年12月の受賞に合わせて出版された著書「夢を持ち続けよう!」(共同通信社)の編集のために、何度かお目にかかった。

 印象に残っているのは、率直さである。自らを語るときも、研究を説明するときも、飾ったり、事実を繕ったりせず、正確に伝えることに心を砕いていた。だからと言って、堅苦しく無味乾燥かといえば、そうではない。その率直さが、たくまざるユーモアとなって、打ち合わせの場はしばしば笑いに包まれた。(47ニュース編集部、共同通信編集委員=佐々木央)

 ▽紋切り型ではなかった志望書

 例えば、応用化学の研究の道に入ったことを「非常に不純な動機だったんです」と明かした。もともとは電気工学を志望していたが、電機メーカーの待遇があまり良くないという話を先輩から聞く。妻すみれさんと既に付き合っていて、結婚を意識していたので、当時、花形産業だった化学分野を選んだ。「それがわたしの脳には合っていた」

 1958年、東大を卒業して帝人に入社。60年にフルブライト奨学生として米・ペンシルベニア大の大学院に留学し、63年に理学博士号を取得した。66年に帝人を辞めて再度米国に留学、パデュー大教授のブラウン博士(79年のノーベル化学賞受賞者)のもとで研究に専念した。

 2度目の渡米前、10通の応募の手紙を書き、3人の学者からオファーを受けたが、ブラウン教授の専門と自分のやりたいことが重なっていた。のちに根岸さんはブラウン教授に言われる。「あのときに、おまえが自分に書いた手紙を見たら、紋切り型ではなかったので関心を持った」。どんな内容だったのか。

 「いまの自分がやっていることはとにかく満足いかない状態だから、本格的に追究してみたい。それについては、62年にあなたの講演を聴いて、自分はああいうことをやりたいと思っているんだ、ということを書きました」

 大抵の応募は、自分の経歴や専門、そして「あなたの仕事に興味を持っています」とつづる程度だという。形式にとらわれず、率直に現状と熱意を伝える。根岸さんらしいやり方で、師の心をつかんだ。

 ▽ホワッツ・ゴーイング・オン?

 ブラウン教授から学んだことをとても大切にしていた。その中には、記者であるわたしにとっても、耳の痛いことが含まれていた。

 「重要なのは『ホワッツ・ゴーイング・オン?』、つまりいま何が起こっているかを正確に調べることだ。これは耳にたこができるくらい聞かされました。それを解明することが第一歩である。推量で短絡的な結論を出してはいけない。厳密なファクト(事実)の追究に関しては本当に徹底していた」

 ブラウン教授との関係は最初からうまくいったわけではない。それもオープンに語った。

 当初研究するべきテーマは二つあったが、その一つについて、教授の指示する実験法そのものに疑問を持った。「指示された方式では先生の狙っている結論が出せるような実験にはなりませんと、論理的に申し上げた」

 ブラウン教授も引かない。「君は日本から来たばかりだから、ひょっとしてわたしの言うことが分かっていないんじゃないか」と、手を替え品を替え説明してくる。根岸さんもそのたびに「これは問題解決になるような実験じゃありません」と反論する。

 そうこうしているうちに、もう一つの研究の方は失敗が続いた。「わたしは文字通り、言うことをきかないくせに、結果を出せない研究者になってしまった」

 それから数カ月間は「先生の注意深い監視下」に置かれた。だが、その時間を「幸せだった」と振り返った。なぜそう言えるのか。

 「先生が貴重な時間の多くを、1対1でわたしのために割いてくれて、強い熱意と決意を持って、数え切れないほどの価値ある教訓を与えてくれたんですから」

 ▽迷ったら周期律表を見る

 研究の基本に関わる言葉も心に残っている。化学研究においては「(元素の)周期律表こそが原点であり、迷ったときには周期律表を見る」と言い切った。

 どれが有機合成に使える金属か、周期律表を見る。金属は毒性の強いものがある。

 「水銀はそう簡単に使ってはいけない。放射性があるものも困ります。それからイタイイタイ病で知られるカドミウムやタリウムもいけない。鉛も駄目です」

 実際問題としては70ぐらいしか使えない。そのとき、はたと考えたのが二つの組み合わせだった。

 「二つが一緒になって特異な活性を持つとすれば、70×70の組み合わせ、約5000です。この組み合わせの中から、系統的にいいものを見つけていこうという発想をもってアプローチした人間は、わたしが最初かもしれません」

 1935年、旧満州で生まれ、10歳で敗戦を迎えて、京城(現在のソウル)から日本に引き揚げた。使える金属を絞り込むというアプローチには、そんな戦争体験が影響していたかもしれない。科学研究の成果は、善用も悪用もできるという二面性を強く意識していた。

 「理性的に考えれば、その後の影響を考慮に入れないで行動するというのは、化学者の無知というか、横暴というか、非常にミスリーディング(読み違い)なことになると思う」

 例として、水俣病をあげた。「水俣病は、水銀が生化学的に海の中で有機水銀化合物(メチル水銀)になり、そのメチル水銀が毒になります」

 私生活では多趣味で、ゴルフやスキー、コーラスを楽しみ、合唱のタクトを振り、米・ラファイエットの自宅は自分で設計した。

 妻すみれさんを18年に事故で亡くした。10年に本の打ち合わせを終えた後、すみれさんも一緒に食事したが、言葉やしぐさの端々に、異国で長く苦労を共にしてきた夫婦のきずなの深さを感じた。

 すみれさんの死のたショックは、どれほど大きかったことかと思う。