6月18日、東京目黒区中小企業センターホールで「あさま山荘から50年 シンポジウム 多様な視点から考える連合赤軍」が開かれ、連合赤軍の当事者や研究者、ジャーナリストらが登壇して語り合った。主催した「連合赤軍事件の全体像を残す会」は、こうしたシンポを開催したり、関係者の証言を書籍にしたりして、連合赤軍を問い続けている。今回も「多様な視点」で考え、次世代にも伝えようと試みた。
 しかし、事件を語るときほとんど欠落してきたのが、ジェンダーの視点だと思う。(敬称略、女性史研究者=江刺昭子)
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 連合赤軍は、赤軍派と革命左派(京浜安保共闘)が合同した組織だ。あさま山荘事件に先行する群馬県榛名山の山岳ベース事件では、リンチを受けて12人が殺されている。そのうち女性は、赤軍派では遠山美枝子1人だが、革命左派では2人が犠牲になった。

 途中で逃げ出した人を含めると革命左派にはさらに7人の女性兵士がいた。事件を考えるとき「女性と革命」あるいは「女性と暴力」といったキーワードも必要なのではないか。
 60年代の学生運動は、政治路線に違いはあっても、どの党派も過激な実力闘争に傾いた。そのため体力や腕力に劣る女性は、救援や連絡、炊き出しやガリ版刷りといった補助的な活動にまわされ、性別役割分担が固定した。
 とりわけ軍事性の強かった赤軍派には、女性メンバー自体が少なく、徹底した男性優位集団だった。最盛期には全国で40人から50人ぐらいの女性が活動したとされるが、多くは男性活動家の友人や恋人だったようだ。
 固有名詞で語られるのは重信と遠山だけ。その遠山でさえ、組織のナンバー2だった夫の活動と暮らしを支え、警察に勾留された同志たちの救援に走りまわっている。遠山はその不当さに気付き、男と同等の兵士を目指して山に入り、帰ってこなかった。
 重信は男性による党派の支配を、遠山とは違ったやり方で乗り越えようとしていた。筆者の質問に対する獄中からの返信で次のように述べている。
 ―「女性を軍に加えろ」「女性に補助的なことしかさせないのは差別だ」と女性から「反乱的意見」があり、私は中央委委員会にその声を提起したことがありますが、「なまいきやな」の一言です。(中略)それで女性たちにも、とにかく持ち場でしっかり実力を示すことで、男たちの無能力を超えよう、女性を活用せざるを得ないようにしようよ、と訴えました―

 男性並みを目指すのではなく、女性役割を受け止めながら、それを着実に果たすことで、党派の中で確かな位置を占める。そんな戦略を描いている。しかし、そのことを悔いてもいる。
 ―でも連赤事件を経て、私が日本に居た時に、赤軍派の中の女性蔑視(特別視や軽視)を正さなかった(正しきれなかった)ことが森さんら赤軍派の人たちの考えが是として続いてきたことを「遠山問題」で強く反省させられました―
 「遠山問題」とは、山岳ベースでの遠山への過酷な追及と殺害を指すだろう。

 学生運動で女性が補助的な役割を担わされていることに違和感を持ち、批判を強めた女たちが女性解放に向けて動いたのが、ウーマンリブである。70年に「便所からの開放」を書いた田中美津はその創始者とされる。
 田中について拙著『私だったかもしれない ある赤軍派女性兵士の25年』で「重信や遠山との接点はなかったようだ」と書いたが、出版後「2人に会ったことがある」と訂正を求められた。映画評論家の松田政男の事務所で、2人と何度かすれ違ったそうだ。
 田中は重信について「独特の存在感があって、普通の人の10倍も20倍も自己肯定感のある人、お父さんに肯定されて育ったのがよかったんでしょうね」と話した。遠山のことは、笑顔のないきつい人という印象を持ったそうだ。
 赤軍派の男たちについても次のように話してくれた。
 赤軍派が結成される頃、田中は反戦グループを作って活動していたことから、友人に頼まれて赤軍派の男を家に泊めたことがあった。するとOKも出していないのに、赤軍派の男たちが出入りするようになった。「世界同時革命なんて立派な言葉に酔っているみたいだったけど、私はそういう頭で考えた言葉ではなく、自分の体験から言葉を紡ぎ出している」。だから彼らに同調することはなかった―
 田中はまた、連合赤軍の結成直前、革命左派の永田洋子(ひろこ)に誘われ、興味本位で山岳ベースにも出かけたが、1泊しただけで下山した。こう振り返る。
 「連合赤軍の人たちは、みな禁欲的で、毅然(きぜん)として生きたいと思っている。私は毅然としていたいと思うと同時に、1歳でも若くみられたいというミーハーな部分も持っているので、革命運動とは一線を画していた。だから命をとられずにすんだのだと思う」
 遠山は山岳ベースに入る直前、遺稿となった夫への手紙で「赤軍女性兵士として、内実を伴う兵士として、徹底的に自己改造していく方向が問われている」と伝えている。
 筆者は一昨年『樺美智子、安保闘争に斃れた東大生』を出版し、60年安保における唯一の死者、樺の生涯をたどった。遠山の遺稿を読んで、樺の最期の日を思い起こした。

 デモ隊のリーダーが、女子学生は後ろに下がり、男子のかばんを預かるように指示する。樺は反発し「せめてスラックスをはいた人間だけは例外にして」と頼み込んだ―。
 最も重要な闘いの場面において、女性を後方に下がらせようとする組織で、遠山も樺も差別的扱いを拒否し、前線に立つことを望んだ。そして帰らぬ人となった。
 重信は海外でも獄中でも厳しい日々を生きながら、みずみずしい感性と社会変革への意思を失わず、出所に合わせて著書や歌集を出版している。出所後、支援者たちが開いた歓迎会では、元活動家らが重信の社会復帰を心から祝い、宴は5時間にも及んだ。
 遠山については、交流のあった人たちの回想を書き記しておきたい。
 

「出しゃっばったり、騒がしい人ではないが、しっかりした人だよ。重信と双璧よ」
 「私たちはドンパチドンパチやっていられたが、遠山さんは裏方でこまごまとした活動で、救対で苦労された。強いかたで、ついつい日和ろうとする私なんかを叱咤(しった)激励することが再三ありました」
 「ビラまきをしていたとき会ったのが最後です。遠山さんは大人で物静かな人、軽やかな話し方をする人で、ちょっとあか抜けたかた」
 「山に行く前、会いました。『わたしたちが新しい世の中を作るから見ててね』と言われたのが、今も忘れられません。これが最後の会話です。美枝子が見ていた世界を作り上げていかなければいけないなと、僕は今でも思っています」(終わり)

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