ロシアによるウクライナ侵攻の例を見るまでもなく、戦争や災害は、身元が分からない遺体を多く生み出す。身元究明を専門とする世界30カ国の法医学者ら100人が協力して活動する国際団体「人権擁護のための法歯学研究会、AFOHR(エイフォー)」をご存じだろうか。
 創設者に、死者の身元を究明する意味を尋ねるとこんな答えが返ってきた。「亡くなった人の身元を正しく特定できるかどうかは、重要な人権問題だ」。その思いは、私が東日本大震災の被災地で聞いた数多くの遺族の声とも重なっていた。(共同通信=山口恵)

 ▽唯一の日本人運営メンバーが語る「法歯学」
 エイフォーの正式名称は「Association Forensic Odontology for Human Lights」。イタリア・トリノ大で法医学を教えるエミリオ・ヌッゾレーゼさんが世界の専門家に呼びかけて設立。2019年以降、本格的な活動を始め、災害などの分野で国際的な知見の共有を重ねる。新型コロナ禍では、VRも活用した遠隔での調査システムを構築した。 
 ヌッゾレーゼさんは、ロシアによるウクライナ侵攻にも関心を寄せる。「多くの民間人が行方不明になっており、法医学の知見が必要だ。私自身も、戦争終結後には、身元究明のボランティアができればと思っている」と語る。トリノ大の法医学研究所がドイツの団体と連携し、ウクライナの法医学関係者のために専門トレーニングの機会を提供することも決まったという。ロシア軍による市民への戦争犯罪を証明するには、国際刑事裁判所(ICC)に提出する証拠が必要だからだ。

 

 エイフォーの運営メンバーには日本からも一人加わっている。岩手医科大准教授の熊谷章子さん。歯科医で、法歯学の専門家だ。東日本大震災では遺体安置所で犠牲者の身元確認に携わった。その後、「一人でも多くのご遺体を家族の元に返したい。もっと力を付けたい」と、先進地のベルギーに1年間留学。現地で連続爆破テロ事件の身元確認も経験した。
 法医学は刑事ドラマなどでよく出てくるが、「法歯学」とは何だろうか。熊谷さんに解説してもらった。
 「法医学者は、事件や事故、災害時などの際、遺体の死因や身元を調べます。具体的には解剖やDNA型鑑定、血液検査などを行います。遺体に向き合うことが多いですが、虐待やドメスティックバイオレンス(DV)の証明など、生きた人を対象にする『臨床法医学』という分野もあります。法歯学は治療痕や歯並びといった歯の特徴や、あごなど口腔周りの骨格を分析して個人を特定したり、年齢を推定したりします」
 「学問的な整理で言えば、法医学の一部門ですが、歯は耐久性が高いため、身元確認において不可欠な存在です。国際刑事警察機構(インターポール)が示す身元確認のルールでも、(1)指紋、(2)DNA型、(3)歯科所見の3点で科学的に行われるべきとされています」
 実際、どのように身元確認するのだろう。
 「遺体の歯科所見を専門の書式『デンタルチャート』に記録したり、ポータブルのエックス線装置で口腔内の画像を撮影したりして、該当する可能性がある人の生前データと比較、同一人物かどうかを調べます。大災害などの際は、警察や各地域の歯科医師会を通じて、犠牲者が通っていた可能性のある歯科医からデータを提供してもらう段取りになっています」
 生前に歯科に通っていないなど、データがない場合はどうなるのか。
 「生前のデータがないと何もできない訳ではありません。専門家が歯を診れば、年齢や性別が推定できますし、虫歯の具合や、治療の状況で、暮らしぶりもかなり推測できます。また『義歯刻印法』と言って、多くの歯科医院では、入れ歯を作る際、歯茎の部分に低価格で名前などを刻印できるのですが、こうした刻印入りの入れ歯が身元判明のきっかけになることもあります」
 こうした情報の蓄積が、大災害時などに力を発揮するという。「犠牲者が大勢出たケースなどでは『明らかにこの人ではない』と可能性を排除できることにも大きな意味があります。法歯学者だけで身元究明が完結するというより、実際は法医学の医師や捜査関係者と連携しながら作業を進めていきます。災害だけでなく、孤独死や認知症による行方不明者の増加が社会問題化する中、法歯学が社会に果たせる役割はたくさんある、との思いで日々活動しています」

 ▽法医学は「家族の痛みの軽減」も提供できる
 エイフォーは今年11月、初めてとなる対面での国際ミーティングを東京で開いた。
 ヌッゾレーゼさんがあいさつし、自身の活動や団体のこれまでを振り返った。
 「歯科所見は、児童虐待やドメスティックバイオレンス(DV)などの犯罪捜査だけでなく、人身売買や集団虐殺などでも活用されている」「身元が確認されて初めて人権は守られる。もし確認できなければ、希望する宗教で弔われず、所持品や財産が適切に扱われないかもしれない。また遺族には愛する人の運命を知り、嘆く権利もある」
 そして、目の前で自身のスピーチをスマートフォンで撮影している若者を見やり、こう続けた。「撮影係をしてくれているのが、僕の16歳の息子だ。もし、彼が行方不明になってしまったら、どうなったかが分かるまで、私の人生は一時保留になってしまう。(最悪の結果だったとしても)しっかり悲嘆して、泣いて、前に進みたい。科学者が提供できるのは技術だけではない。家族の苦しみを軽減できるのが法医学だ」

 私は彼のスピーチを聞きながら、東日本大震災の取材で出会った何人もの被災者のことを思い出していた。夫が行方不明になり「あの日から、まるで時計の針が止まったかのよう」とつぶやいていたおばあさん。せめて遺骨だけでも見つけたくて、がれきを選別 する現場の仕事に就いた男性…。犠牲になった本人にとっても、その先を生きていく家族にとっても、遺体が見つかり、身元が特定できることがいかに大切なことかを痛感したことを覚えている。その気持ちは国を超えて共通していた。

 東日本大震災では、身元確認が十分にできなかったことから起きた「遺体の取り違え」が岩手、宮城、福島の被災3県で少なくとも数十体、起きていた。
 多くは避難所で顔などの見た目だけで判断し、遺族の強い希望もあって引き渡したものの、後になってDNA型鑑定で別人と分かったケースだ。岩手県では、引き渡しから7年たって初めて、別人と判明したケースもあった。
 スピーチ後のヌッゾレーゼさんに、大震災で起きた遺体の取り違えについて聞くと、こんな答えが返ってきた。
 「身元確認は時間が掛かるものだ。時に数か月かかることもある。科学的に慎重に行われなければいけないし、失敗は許されない」。そして日本へのアドバイスとして「身元究明のためには、多職種のチームが必要。その際は、平時のトレーニングから連携して行うことが大切だ」と話した。

 ただ、災害時の日本の身元究明態勢は、震災があった11年前と比べて実は大きく変わっていない。
 そもそも、日本で歯科所見による身元究明の有効性が初めて認識されたのが、520人が犠牲になった1985年の日航ジャンボ機墜落事故だ。
 1995年には阪神大震災、2011年には東日本大震災と、大規模な災害は続き、近い将来に、南海トラフ巨大地震や首都直下地震が起きる可能性もある。
 取り組みが進む諸外国では国主導の身元究明チームや、事前に歯科データを保存する全国的なデータベースがあるが、日本にはない。治療痕などを記録するデンタルチャートの書式も統一されないままだ。
 エイフォーのメンバーである熊谷章子さんは、日本の現状を嘆いた。「海外も含めこれだけ人の移動が容易になり、広域災害も予想される中、身元究明の態勢はもっと統一化される必要がある。平時を、次の大災害に備えた準備期間だと思わなければいけない」。災害の多い地に住む私たちは、まだまだ学ぶべきことがたくさんあるのではないか。