6月4日、中国の天安門事件から32年がたった。遺族の会「天安門の母」は真相究明と賠償、責任追及を求め続けてきたが中国共産党が応える気配はない。7月に創建100周年を迎える党は、武力弾圧で「動乱」を鎮圧したとし、当時の行為を正当化する歴史観を維持。一方「政府の言う『暴徒』に市民は献血をしてくれた。医師も軍からかばってくれた」「政府の宣伝とは別に、人々は心に正義を持っていた」…。32年前の北京で何を見たのか。事件で夫を撃たれた遺族の会代表の尤維潔(ゆう・いけつ)さん(67)に聞いた。(共同通信=鮎川佳苗)

 ▽「ゴム弾かな」

 「銃声がした」。1989年6月4日未明。尤さんは夫の楊明湖(よう・めいこ)さん=当時(42)=にこう言って起こされた。4歳の長男を寝かしつけ、遅くに寝たから眠りが深かったのか、尤さんには聞こえなかった。「『撃った』という意味をあの時は深く分かっていなかった。『ゴム弾かな』と。まさか実弾を大通りで撃ちまくるなんて。そんな考え自体が頭になかった」。尤さんは振り返る。

 尤さんは北京に戒厳令が出される前夜の5月19日、広場に様子を見に行っていた。「学生も市民も、そこら中に人がいて手をつなぎ立っていた。(戒厳令で)『軍が来る』と言われていて、彼らは『来るなら来い、撃つなら撃て』と。国を愛しているからこその情熱に感動した」。当時市民は水や食料を持ち出して通りかかった車に託し、盛んに広場へ送り届けていた。貿易関連の政府系機関で働いていた楊さんも、職場近くでしばしばデモ隊を見かけた。4月の胡耀邦・元党総書記死去に端を発し、腐敗一掃などを訴えた当時の運動を夫妻は支持し、関心を寄せていた。

 6月4日未明、2人が起き出したところ、階下の住民が市西部の木樨地(もくせいち)と西単(せいたん)方面から帰ってきた。木樨地は後に犠牲者が最も多かったとされる地域だ。尤さん夫妻が尋ねると、「怖くて広場へは行かなかったが、西単で血だまりを見た。建物の屋根に銃があるのも見た」という。午前1時ごろ、楊さんは広場の学生を案じて出掛けていった。

 ▽血だらけで泣く人々

 「社会が乱れてなどいない」雰囲気の中、いきなり軍が実弾で鎮圧するなどということは市民の想像を超えていた。「ゴム弾に違いない」と言い合う住民の会話を聞きながら尤さんは外で夫を待った。午前3時ごろ、尤さんも銃声を耳にする。「後から考えると、この時に彼は撃たれたんじゃないかと思う」。一睡もできずに午前6時ごろ再び外へ出たが、待てども夫は戻らない。

 家へ入ろうとしたところ、夫が撃たれ、同仁病院に運ばれたことを訪ねてきた若い男性に知らされた。市民が負傷者6人と共に病院へ運んだが、5人が亡くなり、楊さんともう1人だけが命を取り留めたという。だがこの1人も刀で刺されており、結局亡くなったと聞いた。

 「救急診療室で見た光景は一生忘れられない」と尤さんは話す。誰もが全身血だらけでうつむき、泣いていた。楊さんは銃弾を受けた膀胱(ぼうこう)を縫合する緊急手術を受け、午前10時ごろに手術室から出てきた。骨盤も粉砕骨折。医師は骨折の処置はできないと説明した。「公安省から出てきた兵士が一斉掃射した」と楊さんは妻に語った。容体が回復してからもっと話を聞けると思っていた。だが楊さんは6日早朝、息を引き取った。

 ▽「暴徒」に血をくれた市民

 楊さんは輸血が必要だったが病院では血液が不足していた。「戒厳部隊が血液バンクを事件の負傷者に使わせなかった」という話も出回ったが、尤さんに真偽は分からない。献血を呼び掛けてくるよう医師に言われ、楊さんが亡くなる前日の5日朝、尤さんは病院付近の路上に立った。だが引っ込み思案でなかなか声が出せない。「彼女の夫は撃たれて血が必要なんだ」。医師が代わりに呼び掛け、20〜30代の男性十数人が応じてくれた。うち4人の血液型が夫に適合し、献血した。

 

 「政府は運動を『動乱』、負傷者は全員『暴徒』と結論付けた。それなのに市民は立ち上がり、夫のために献血をしてくれた」。感激した尤さんは彼らの連絡先を書き留めたが、楊さんの死後の混乱と悲痛の中で紛失してしまった。5日夜、医師は軍が病院に「暴徒」を調べに来ると聞き、楊さんの診療記録の「銃創」を泌尿器系の病名に書き換えたと告げた。負傷者を軍から守るためだ。

 「あの時、政府が何を宣伝で言おうと、正義はそれぞれの心の中にあった」と尤さんは強調する。いつか党・政府が事件を「タブー」とするのをやめ、公に話すことができるようになった時、メディアを通じて夫に献血してくれた市民を捜し出すのが願いだ。

 ▽党は功績ばかりを強調

 今年は党創建100年。最近出版された最新の党略史は、武力弾圧を正当化する歴史観をさらに鮮明に打ち出した。弾圧で一党支配を守ったことが今の中国の「社会主義体制の成功」につながったとの立場だ。略史本は党の従来の見解通りに事件を「政治風波(騒ぎ)」と呼び、「国際的な反共・反社会主義の敵対勢力が扇動した」と旧版より詳細に記述した。

 尤さんは「当時の学生運動は憲法違反ではなかった。憲法にはデモと言論の自由が定められている」と反論する。「政府には自らの過ちと向き合う勇気がない。彼らの功績がいかに輝かしいかだけを知らせたい。事件を知らず、存在自体を信じない若者さえいる。歴史教育の欠陥だ」と批判した。

 しかし、軍を動かして丸腰の市民を多数殺害した行為こそ「犯罪」だと糾弾する「天安門の母」ら遺族の声は中国本土で公に取り上げられることは皆無だ。遺族に接触し続けてきたのは香港メディアのみ。その香港でも、集会や言論の自由は習近平指導部の統制強化の下、危機にひんしている。

 会のメンバーは長年当局に監視、抑圧されてきた。創設者の丁子霖(てい・しりん)さんから、2014年に尤さんは代表の立場を引き継いだが、高齢化が進み、亡くなった遺族も多い。会員だった親の遺志を引き継ぐ子ども世代もいるが、弾圧を恐れて会に加わらない人もいる。尤さんは力を込める。「本当は中国メディアこそ私たちを取材するべきだ。その時にはもっと多くの遺族が勇気を出して立ち上がり、心情を話せるはずだと信じている。いつかそういう日が来るのを見たい。その日が来るまで、私たちは活動し続けなければならない」