歳月が流れても、語り継がれる戦いがある。役者や舞台、筋書きはもちろんのこと、芝や空の色、風の音に至るまで鮮やかな記憶。かたずをのんで見守る人々の息づかいや、その後の喝采まで含めた名勝負の数々の舞台裏が、関わった人の証言で、よみがえる。


第12回は、2007年マンシングウェアオープンKSBカップ。高校生になったばかりのアマチュア、石川遼が、15歳245日という世界最年少(ギネスレコード)優勝を飾ったのは、ちょうど14年前の5月20日。その現場を、テレビ中継の実況を務めた多賀公人さん(現ユイ・コミュニケーションラボ代表。キャスター兼プロデューサー)が証言する。

「ハニカミ王子」。新語・流行語大賞にまでなったこの名付け親が、ほかならぬ多賀さんだ。当時、大会主催者でもあるKSB瀬戸内海放送のアナウンサーとして、実況を担当した。優勝が決まる少し前まで、石川の情報がほとんどなかったことを打ち明ける。  

「(石川遼の)出場は、直前に決まったものでした。ジュニア育成というスポンサー推薦の枠があって、先に3人出場が決まっていた。石川くんは大会2週間前に特別推薦で出場が決まったんです」。通常、スポーツの実況アナウンサーは、事前に出場選手全員分の資料を作る。しかし、そんな状況だから石川遼の情報は『杉並学院高校1年』くらいしかない。パンフレットにも、プレスリリースにもない。

石川が決勝ラウンドに進んだ時、資料を探そうとする多賀さんに、中継に携わるプロたちは口々に言った。「たぶん資料はいらないよ」。一足先に、ジュニア時代の宮里藍や横峯さくらがプロのツアーで活躍し、高校生のアマチュアがどんどん力を発揮していた女子とは違い、男子ツアーではまだまだプロとの差は大きかった。プロたちがそう言うのも無理はないのが当時の状況だった。

舞台となった東児が丘マリンヒルズGC(岡山県)を、この年は悪天候が次々に襲った。雷に続く暴風で、初日はトップの組が11ホールプレーを終えていながらキャンセルとなり、翌日、仕切り直して再スタート。だが、この日も雷で中断するなど、72ホールでの試合成立すら危ぶまれる展開だった。

3日目も豪雨に見舞われたが、それでも全員、36ホールのプレーが終了。最終日の日曜日に決勝ラウンド36ホールを行うことが決まった。コースメンテナンスやテレビ中継の事情に配慮して(JGTO公式ウェブサイトより)予選通過していながら決勝ラウンドでプレーできない選手(賞金は支払われる)が出る異例の決定が下されている。33位タイまでの41人だけが、最終日のプレーに臨んだ。

この時点で、石川は、トータル3アンダー・23位タイ。アマチュアとしてはただ一人、日曜日にコマを進めている。しかし、首位のプラヤド・マークセン(タイ)との差は7打あった。

当然だが、バタバタしていたのは選手たちばかりではない。あらかじめ決まっているテレビの放送枠の中に、いかに勝負を収めるか。結果的には、途中までが録画中継で最後の約15分間が生放送になった。

「ただひとり予選を通ったアマチュアですから、石川くんの情報はずっと探していました。でも、大会事務局に聞いても、JGTOに聞いても『いい子だから』というくらいの答えしか返って来なかったんです」。多賀さん自身も石川周辺に直接取材する機会がないまま、日曜日を迎えていた。

第3ラウンドと最終ラウンドのあいだの時間は30分余りしかない。通常ならスコアがいい者が後になる最終ラウンドのスタート時間も組み替えがない。第3ラウンドを終えて石川はトータル6アンダー・9位タイに浮上。首位の小田孔明とは4打差で、第3ラウンド同様、立山光弘、久保谷健一と1番からトップの組でスタートしている。

石川は、前半、バーディを重ね、8番までに通算10アンダー。するするとリーダーボードの上位に上がってきた。コースの奥に置かれていた放送ブースにこもりきりだった多賀さんが、一目、石川の姿を生で見たいと考えた。放送スケジュールとレイアウトを考えると、9番から10番へのインターバルしかチャンスはない。多賀さんは、これを逃さなかった。

しかし、石川は9番でボギーを叩く。高校1年生になったばかりで、プロのツアーには初出場のアマチュア。多賀さんは「このまま落ちて行くんだろうな」と思ったと言う。

だが、予想に反して10番ですぐにバーディ奪取。喝采するギャラリーに対し、一緒に回っていた立山が、粋な演出をした。ボクシングのチャンピオンにレフェリーがするように、石川の片手を大きく上げて見せたのだ。

四方八方に深くお辞儀をする石川。最後に顔を挙げた瞬間のはにかんだ表情が、多賀さんの脳裏に残った。「かわいいな、と思いました。それでいてティショットは立山選手より飛んでいる。すごいな、という印象でした」。

放送ブースに戻り、実況を続ける。石川は順調にスコアを伸ばしてトータル11アンダー。優勝争いの真っただ中で17番パー3に差しかかった。ティショットを打つ前に、解説の羽川豊がポツリと言った。「ここは奥のバンカーに入れたら終わりだ」。石川のティショットは、そのバンカーに吸い込まれた。

万事休す。誰もが、そう思った。だが、石川はバンカーから直接、カップに入れるバーディを奪った。のちに何度も、ニュースやワイドショーで流されることになるシーンだ。18番もグリーンの左バンカーからパーセーブしてトータル12アンダー。真っ先に単独首位でホールアウトした。

後続のプロたちも、必死で追いすがる。しかし、2組後ろの宮本勝昌は18番のバーディパットを外して1打差及ばない。百戦錬磨のクレイグ・パリー(オーストラリア)が残り3ホールで2打差に迫ったが、17番ダブルボギーで失速。最終組の宮里聖志は、16番バーディで2打差としたあと、17番ボギー。18番のティショットを右のラフに入れ、レイアップした瞬間に石川の優勝が決まった。

石川は、テラスでインタビューを受けていたが、放送時間は残りわずかしかない。実況アナウンサーは、番組を締めなくてはならない。多賀さんは、邪魔にならないように残り1分15秒でインタビューに割り込んだ。「おめでとう。素晴らしい試合でしたね。実況させてくれてありがとう」。そう歴史的偉業をたたえた。残り15秒。うつむいた石川の瞳から、ポロリと涙がこぼれ落ちたように見えた。またしてもはにかむ15歳。残り10秒。多賀さんは番組を締めくくった。「東児が丘で奇跡を起こしたのは、ハニカミ王子でした」。放送は終わった。

当時の状況では、15歳のアマチュアが優勝を予想するのは極めて難しい。1日36ホールで最終ラウンドが成績順のプレーにならないことが決まった時点で、放送関係者の中ではプロに照準を合わせるか、唯一のアマチュアである石川を追うか、意見が分かれた。決まらないまま放送が始まったが、最後の最後に「俺が責任を取るから」と、石川を推したディレクターがいたと言う。そうでなければ、石川のプレーがあれほど全国に映ることはなかった。

試合後、石川の周りは大騒ぎで、多賀さんは挨拶に行くこともできずに終わった。直接、話ができたのは試合から7カ月後の12月。記念植樹でコースを訪れた石川は、大勢のメディアに囲まれながら、多賀さんに挨拶をした。「帰ってから何百回も実況を見ました。あの実況が僕を優勝させてくれたんです」。多賀さんが感激したのは、言うまでもない。

ハニカミ王子とその名付け親。名勝負の裏に隠されていたこんなストーリー。「全国放送で実況ができるようになってあれが3年目でした。フリーになってからもゴルフの実況に呼んでもらえるのは遼くんのおかげです」。そう言って笑った多賀さんも、はにかんでいるように見えた。(文・小川純子)

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