2022年のノーベル文学賞に輝き、現代のフランス文学界でもっとも注目を集めている作家アニー・エルノー。これまでに数々の衝撃作を世に送り続けていますが、今回ご紹介するのは、自身が経験した違法な中絶体験をもとに描いた小説『事件』を映画化し、大きな反響を呼んでいる話題作です。

『あのこと』

【映画、ときどき私】 vol. 537

貧しい労働者階級に生まれたものの、飛びぬけた知性と努力で大学に進学し、未来を約束する学位にも手が届こうとしていたアンヌ。前途有望な彼女の毎日は、輝いていた。ところがある日、大切な試験を前に予期せぬ妊娠が発覚してしまう。

学位と自分の未来のために、いまは産むことができないアンヌだったが、1960年代のフランスで中絶は違法とされていた。そこで、アンヌは自らの力であらゆる解決策に挑むことになるのだが……。

第78回ヴェネチア国際映画祭では、審査員全員が満場一致という他を寄せ付けない結果で最高賞となる金獅子賞を獲得した本作。そこで、こちらの方にお話をうかがってきました。

オードレイ・ディヴァン監督

2008年から脚本家として活動し始め、さまざまな作品の脚本を手掛けてきたディヴァン監督。2019年に監督デビューを果たしたのち、監督2作目となる本作で各国の賞レースを席巻し、一躍脚光を浴びています。今回は、中絶というテーマに挑んだ理由や原作者とのやりとりで感じたこと、そして作品に込めた思いなどについて語っていただきました。

―原作は1960年代のフランスを舞台にした実話ですが、いまの時代にこの作品を映画化したいと思ったのはなぜですか?

監督 実は、最初から映画化したいと思っていたわけではなく、ただこのテーマに興味があって本を読み始めたのがきっかけでした。なぜなら、ちょうどそのときには私も中絶をしたばかりだったので、違法な中絶と合法な中絶にどのような違いがあるのかを対比したいと思ったからです。そして、実際に両者の間には大きな差があることを知りました。

あとは、主人公のアンヌが性的な欲望だけでなく、「勉強をしてもっと上に行くんだ」という欲求を持っている知的な女性であることも惹かれた点です。

―なかでも、違いを感じた部分についてお聞かせください。

監督 特に、違法な中絶の場合は、きちんとした医療体制下で行われるものではないので命を落とすかもしれませんし、もしかしたら告発されるかもしれないというリスクがあります。ただ、そういった部分にサスペンス性があると感じたこともあり、映画化に向けて脚本を書き始めました。

自分のなかに突き刺さったのは、怒りの感情

―ということは、ご自身の経験が反映された部分もあったのではないかなと。

監督 そうですね。といっても、私の体験と違法な中絶とでは、まったく違うものだと感じました。それでも本を読んでいて私に突き刺さったのは怒り。それは、「どうして私たち女性は自分のカラダの運命さえも自らの手で変えることができないのだろうか」という怒りです。

私は政治学も勉強しているので、いまでも世界のあらゆるところで違法な中絶が行われていることを知っています。それだけに、このことは決して過去の話ではないという思いもありました。

―制作過程では、原作者のアニー・エルノーさんと1日一緒に過ごしたそうですが、そのなかで印象に残っている彼女とのエピソードについても教えてください。

監督 彼女との関係性というのは、私にとっては非常に重要なことでした。というのも、今回は単に彼女の作品を映画化するわけではなく、彼女自身の人生をもとにしているので、とても繊細なことでもあったからです。

そこで、私が彼女にお願いしたのは、本には書き切れなかった部分を教えてほしいということ。それはまるで、扉の裏側を見せてもらうような感じでもあったので、デリケートであると同時にワクワクする瞬間でもありました。

―実際、ご本人からお話を聞いて感銘を受けることもあったのではないでしょうか。

監督 確かに彼女に話してもらったことのなかには、興味深い話がたくさんありました。なかでも印象的だったのは、彼女が感じた恐怖。非常に厳しい法律を犯してまで中絶をしたわけですから、それに対する恐怖心というのはものすごくあったと教えてくれました。

そして、忘れられないのは、中絶を行ったときの話をしていた彼女の目に浮かんでいた涙。その姿を目の当たりにしたとき、若い頃に味わった苦痛が80歳を越えたいまなお彼女のなかにあり、傷が癒えていないことを痛感せずにはいられませんでした。

中絶の権利は、合法化されたいまでも脆弱に感じる

―劇中では、アンヌを演じたアナマリア・ヴァルトロメイさんがアニーさんの心情を見事に体現されていたと思いますが、演出面で意識されていたことはありますか?

監督 私たちの仕事は共同作業なので、私がオーケストラの指揮者のようにそれぞれのパートをどうしたらまとめられるかを考えました。今回のアナマリアは、知的で最高のパートナーだったので、この作品における哲学を理解し、同じ方向を見ることができたと思います。

私自身はリハーサルを何度も繰り返すタイプではなく、どちらかというとリスクを取るほうですが、現場では限界に到達してはアナマリアが的確なものを差し出してくれる、ということの繰り返しでした。

―フランスでは1975年に人工妊娠中絶が合法化されましたが、それによってフランス人女性に何か影響を与えたとお考えですか?

監督 法律ができたかどうかにかかわらず、「中絶をする」ということに対して女性が抱く感情的な部分は昔もいまも変わっていないように感じています。医療体制が整っていたとしても、危険が伴うことはありますし、自分の人生をかけて行うものでもあると思うので。もちろん、女性の自立に貢献した部分はあるかもしれませんが、私からするとこの権利はとても脆弱なものに見えています。

―なぜそう感じたのでしょうか。

監督 たとえば、今回私が「中絶をテーマにした作品を撮りたい」と話したとき、資金を出す人たちからは「すでに合法化されているものなのに、どうしていまこのテーマを扱うんだ」と言われました。そういった反応が思った以上にあり、いまでも難しさを感じることが多かったからです。

ただ、私はそのときにプロデューサーに対して「じゃあ、第二次世界大戦は終わっているのに、なぜ第二次世界大戦をテーマにした作品を撮るんですか? あなたはそれに対してもダメと言いますか?」と反論しました。

この作品には、性別を超えて真実を伝える力がある

―そんな反発の声をよそに、本作は各国の賞レースでも高く評価されましたが、中絶の問題は国や文化によっても捉え方が異なるので、性別や観客によって作品に対する見方に違いもあったのでは?

監督 私としては、どの国でも性別や文化の違いを超えて、みなが身も心も委ねて大きな船に乗り込んで一緒に旅をするような体験をしてくれたという印象を持ちました。とはいえ、男性のなかには映画の最中に気絶をしてしまったほど衝撃を受けた方もいらっしゃったようですが……。

それ以外は、男女ともに同じような反応が多かったので、そのときにこういった出来事があったことを知らない人たちに事実を伝える力がこの作品にはあることに気づかされました。といっても、私の目的はそこで答えを出すことではなく、あくまでも観客に対して問題提起をすること。若い女性が身体的かつ精神的な苦痛を伴いながら孤独のなかでこういった経験をしていたことを知っていただき、自分のなかでそれぞれ考えてほしいと思っています。

―日本はフランスよりも早い1948年に中絶が合法化されてはいますが、現在も中絶においては原則として配偶者の同意を必要とする数少ない国(世界203ヵ国のうち日本を含む11の国・地域のみ)です。女性の自己決定権がない中絶に関してはどのように思われますか?

監督 そんなふうに男性の同意を必要とする背景には、いまだに女性よりも男性のほうが大事であるという考え方が残っているのではないかなと。もちろんすべてにおいてとは言いませんが、そういった部分はいまでも多い気がしています。

自由に判断を下せているのか、つねに自問してほしい

―では、日本についてもおうかがいしますが、日本に対してはどういった印象をお持ちですか?

監督 もうすぐ初めて来日しますが、日本に行くことは私にとっては夢のひとつでもありました。なぜなら、私は日本の文化やアーティストのことをとても敬愛しているからです。なかでも私が若いときから影響を受けているのは、是枝裕和監督。私にとって重要な映画監督といえば、ケン・ローチ、ダルデンヌ兄弟、そして是枝監督なのです。

―日本の女性たちにとってもアンヌと同様に妊娠や中絶は人生における大きな問題でもあるので、本作を通してananweb読者に向けて伝えたいメッセージがあればお願いします。

監督 私は答えを差し出したり、アドバイスを押し付けたりするようなことをするのは好きではないので、みなさんに疑問を投げかけるとすれば、「あなたにとってそれは本当に大事なことですか? そして、それはする意味があることですか?」ということでしょうか。そんなふうに、自問すること忘れないでほしいと伝えたいです。そして、判断を下すときに自分が自由に判断できているかも、自分自身に問いかけてもらいたいと思います。

私の話をすると、日本とフランスで文化の違いはあるかもしれませんが、仕事をする際にも日常生活においても、あまり性別による差を考えることはありません。それよりも、一人の人間として生きることをつねに心がけるようにしています。

赤裸々な真実を目の当たりにする!

一人の女性を襲う戸惑い、怒り、孤独、そして恐怖といったあらゆる感情をリアルに体感し、衝撃に打ちのめされる本作。まるで自分が体験しているかのような錯覚を起こしてしまうほどの痛みを味わい、圧倒的な没入感へと引き込まれてしまうはず。目を逸らすことのできない現実を突き付け、観る者に忘れられない映画体験を与えてくれる必見の1本です。


取材、文・志村昌美

胸を突き刺す予告編はこちら!

作品情報

『あのこと』
12月2日(金)Bunkamura ル・シネマ他 全国順次ロードショー
配給:ギャガ

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