富山県朝日町宮崎地区の特産品「灰付(はいつ)け(灰干し)わかめ」が、遅くとも幕末には作られ、加賀藩主らの食膳に上った可能性を示す文書が、町内に残る屋敷の壁から見つかった。この産品に触れた文書としては最も古く、地域の産業史の一端が明らかになった。

 長さ約40センチ、幅約15センチの文書は、加賀藩の下で村々を統括した役職「十村(とむら)」の伊東次郎左衛門が書いた手紙。出先から沼保村(現朝日町)の自宅へ出したとみられ、「吉野様から干しぜんまい3貫目(11・25キロ)と灰干しわかめ200れんの入手のご依頼があった」といった趣旨で、手配を指示する内容だ。

 文書があった屋敷は元々、藩主などが宿泊・休憩する本陣で、伊東家が管理していた。明治時代に天皇巡幸のために増改築され、現在は「明治記念館」の名で保存されている。

 2014年に町が移築・改修した際、壁の中から、多数の古文書が張られた木枠が見つかった。町の博物館「まいぶんKAN」がこれまで千枚以上をはがして調査し、江戸中期〜明治前期の年代を確認している。

 文書の解読を担当する同県滑川市立博物館の近藤浩二館長によると、手紙の「吉野様」は、十村との結びつきが強い新川郡奉行だった吉野善八郎の可能性が高い。干しぜんまいの献上などに関する他の文書を踏まえると、藩主らの献立を担当する役所「御膳所(おぜんどころ)」向けに入手を依頼したと考えられる。

 手紙に年代の記載はなく、吉野の在任時期から慶応3〜明治2年(1867〜69)ごろと推定。製造歴の浅い加工品が藩へ送られるとは考えにくいため、少なくとも幕末には作られていたらしい。わかめの産地名も書かれていないが、伊東家の管轄内では唯一、旧宮崎村でとれた。それが干しぜんまいとともに、地域の名産として金沢へ送られた可能性がうかがえるという。

 現在、灰付けわかめの生産量はわずかで、今年は不作のため製造が中止された。例年は5月に天然ものを収穫し、稲わらの灰をまぶして砂浜で乾燥させる。その製法は明治以降の資料に記述が見られるものの、起源はわかっていない。灰を使う製法は各地にあり、有名な産地の徳島・鳴門では、灰をまぶした後に洗い落として乾かすやり方が、弘化2(1845)年に発明されたと伝わる。

 近藤さんは「宮崎の灰付けわかめは、どうやら江戸後半には始まり、殿様が召し上がったかも知れない。昔の人が不要と思って下張りに使った紙から地域の歴史がわかり、興味深い」と話す。

 この文書は、町図書館で開催中のミニ企画展「明治記念館下張り文書からわかる庶民の暮らし 灰付けわかめと干しぜんまい」で、収穫用の民具や資料と合わせ、9月1日まで公開されている。

 隣の明治記念館は、図書館に申し出れば見学できる。展示の問い合わせはまいぶんKAN(0765・83・0118)へ。(佐藤美千代)