山口県は2度目の赴任。近代国家を築いたこの地域ゆかりの政治家や軍人らに興味を持っている。その一人が山県有朋だ。没後100年の一昨年など、折に触れて記事を書いてきた。

 奇兵隊の軍監から陸軍で元帥まで上りつめ、首相として議会政治と向き合った山県は、軍事のあり方を考える上で格好の人物だからだ。

 関門海峡対岸の北九州市立大学で日本政治外交史を研究し、昨年11月に評伝「山県有朋 明治国家と権力」(中公新書)を出した小林道彦名誉教授(68)に話を聞いた。

 日本は日清・日露戦争に勝ち、台湾や朝鮮半島を植民地化した。陸軍の制度を設計した山県は「軍国主義の象徴」との見方をされる。山県らが率いた藩閥政府は対外侵略の道に向かい、自由民権運動側はアジアと融和的だったと言われるが「単純に分けられない」と小林さんは言う。

 自由民権運動の指導者だった板垣退助は、土佐藩では軍隊を率い、明治政府で征韓論を唱えた。

 運動家の中には徴兵制に反対し、「軍隊は民兵たるべきだ」という人民武装の議論があったという。

 「山県に言わせると、民兵構想の背後には不平士族たちがいた。彼らは結構、対外的な武力行使に乗り気だったんです」

 山県らが死去した後、日本は国際協調の枠組みをはみ出し、軍は暴走する。背景にあったのが、軍隊の最高指揮権は天皇大権であり、一般の国務から独立するとした大日本帝国憲法の「統帥権の独立」だ。

 その制度の確立に関わったとして、批判の矛先が山県に向かうことが多いが、「政治による軍事への介入をどう食い止めるか、が問題意識の発端でした」と小林さん。

 明治政府内では初代陸軍大将の西郷隆盛らが征韓論を唱え、対外戦争が起きかねなかった。台湾出兵は実力者の大久保利通でも止められなかった。

 山県は西郷に征韓論は時期尚早と伝え、台湾出兵にも反対した。「軍隊の私兵化、軍隊を使っての対外的な軍事行動をいかに抑えるかという問題意識から統帥権の独立が制度設計されたのです」

 ただ、山県はその一方、日露戦争中からロシアの報復に備えて大軍拡を主張。第1次世界大戦期には、「日本は中国全土の防衛ができる軍事力を持つべき」といった現実離れした主張が目立つようになる。

 小林さんは研究仲間らと国会図書館の憲政資料室や防衛省などの山県関係の資料を編纂(へんさん)する作業と並行して、評伝を書いた。資料を渉猟しながらも、山県の現実主義と現実離れした対外飛躍論の間の振幅の理由については「どうもよく分かりませんでした。その点が書けたら、この評伝は決定打になったと思います」と言う。

 6月14日で山県生誕から186年が経つ。その生涯をふり返ることは、時を経た今も政治と軍事の関係を考える上で示唆に富む。(大室一也)