プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

“ブレーブス”以前の阪急で



阪急・石田光彦

 阪急電鉄の創始者で、のちに大臣も歴任した小林一三は、巨人が大日本東京野球倶楽部として結成された1934年、アメリカのワシントンにいた。小林は日本に「即刻、職業野球の球団をつくり、西宮の北口に野球場をつくれ」と電報を打つ。そして36年1月、阪急は誕生した。自前の球場を持つ計画を持っていたのは唯一。翌37年に竣工した西宮球場は、将来のナイターを予見して、いつでも照明設備をつくれるように設計されていた、画期的なものだった。

 だが、阪急は長い低迷を続ける。いわゆる“灰色の時代”だ。阪急ブレーブスとなったのは47年。それまでの選手たちは厳密には“勇者”ではないのだが、勇ましい男たちが並んでいた。

 打線の中軸を担った宮武三郎と山下実はプロ野球“元年”の選手たちを紹介した際に触れた。慶大では東京六大学のスターで、王道を走ってきたような2人だが、投手では対照的に、かなりのクセ者が名を残す。阪急の結成に参加し、そしてチーム初のノーヒットノーランを達成した石田光彦だ。クリスチャンでもないのに右手で十字を切り、ワインドアップから打者に背中を向けて、時にはフォームの途中で打者から目を切ってスタンドを凝視するなど、誰もマネできない(マネしようとも思わない?)変則投法で打者を幻惑、阪急ラストイヤーの40年にもノーヒットノーランを達成している。

 その40年に28勝を挙げたのが森弘太郎だ。翌41年の30勝、防御率0.89は阪急の歴代トップとしても残る。43年にノーヒットノーランを記録したのが天保義夫だ。44年に勤労奉仕の工場で両手の指4本を失いながらも、これを生かしてナックルを不規則に変化させ、戦後の46年から5年連続2ケタ勝利。戦後は巨人の“打撃の神様”川上哲治をして「カミソリのよう」と言わしめたシュートを武器にした今西錬太郎も入団、2チームで戦前から戦中にかけて4年で100勝に到達した“鉄腕”野口二郎も兄の明がいたことで加入して投打で阪急を支える。

 この右腕たちを支えた正捕手が日比野武。強肩強打に加え、“ささやき戦術”の元祖ともいわれる頭脳派で、2リーグ制となってからは西鉄で黄金時代の司令塔として活躍している。

“黄金時代”前後の勇者たち



阪急・バルボン

 2リーグ制となり、ついにナイターが始まった53年、そのナイターでの高い勝率で“夜の勇者”と呼ばれ、41年に続く2度目の2位。助っ人が目立つ快進撃だったが、助っ人でインパクトを残したのは55年から64年まで10年間プレーを続けたバルボンだろう。スピードスターとして以上に人気を集めたのがキャラクター。のちの黄金時代には通訳としてスピードとキャラを両立させ(?)、長い英語の通訳を「そうやね」の一言で片づける離れ業も。そのバルボンと一、二番コンビを組んだのが遊撃手の河野旭輝で、3年目の56年にプロ野球記録を更新する85盗塁を決めたスピードスターだった。

 黄金時代の前夜が全盛期だった梶本隆夫、米田哲也の左右両輪も、すでに紹介した。“おトボケのシゲさん”石井茂雄も無冠ながら60年代に20勝を2度クリアした右腕で、打線では中田昌宏が59年に本塁打王となったが、ともに黄金時代の幕開けを経験しながらも、全盛期は過ぎていた悲運の男たちでもある。

 それは“ポスト黄金時代”の男たちも同様だ。77年の巨人との日本シリーズでの好走塁で全国区となった簑田浩二がトリプルスリーを達成した83年には西武の黄金時代が始まっていた。強打もあるスイッチヒッターの松永浩美や、いぶし銀の弓岡敬二郎、勝負強さと巧打を兼ね備えた石嶺和彦ら、投手陣ではクローザーとしてもスターターとしても成功を収めた本格派右腕の山沖之彦ら、その後も続々と新戦力が登場したが、優勝は84年の1度のみ。そして88年を最後に、阪急は歴史を終えることになる。

 チームは新たにオリックス・ブレーブスとなったが、91年からはブルーウェーブに。“勇者”も、そして西宮球場も、歴史の1ページとなった。

写真=BBM